循環論

今回の記事は学術っぽく頭が良さそうに見せかけ
実際には大した内容ではないので、
暇な人以外は読まないで下さい。
難解な用語を分かりやすく伝える方が難しいのですが、
そこまで書けるだけの余裕がありませんでした。

古代中国には十二支や干支など、
世の中が循環すると言う理論がありますが、
政治に関しても循環すると言う理論は
古代ギリシャで既になされていて、
政体循環論と呼ばれています。

古代ギリシャの歴史家ポリュビオスは『歴史』の中で

王制 > 専制 > 貴族制 > 寡頭制 > 民主制 > 衆愚制 > 王政

と政体は転落・堕落し滅び再び初めから繰り返すと主張、
この循環をアナキュクロシスと呼びます。
共和制ローマは執政官・元老院・民会で構成され、
政体を安定させ循環論の流れに陥るのを抑止していると
評しています。

プラトンやアリストテレスも似た理論を提唱していますが、
プラトンの面白いところは、
師のソクラテスが民主政で処刑されたのに
民主政だけ取り出して否定する事をせず、
様々な形態を総合的に比較検討している所でしょう。

プラトンは『国家』第8巻で、
クレタやスパルタのような国制、
寡頭制、それに敵対し生まれる民主制、
最悪の僭主独裁制の四つの国制を挙げ、
順番に転落・堕落する話をしています。

クレタやスパルタは『法律』第3巻で評価され、
スパルタの制体は王家・長老会・民選の監督官で構成され、
調和や適度を保つことができるとしていますが、
アテナイとペルシャは民主制での自由追及か君主制での専制かの
両極端に偏っているとします。

プラトンは『政治家』で、
支配者の数の三つの段階と、
法律を遵守するか軽視するかの
善悪にる六分類を語っているので、
アナキュロクシスと似ていますね。

アリストテレスは『政治学』第3巻で、
法律を遵守するか軽視するかではなく、
国民全体を「最高善」(国民共通の公共の利益)に
導く事を目的としているかの6つに分類し、
この分類では民主政は共和制の堕落した
貧困者の利益を目的とした偏った形態とされます。

第4巻では中間層により支配された混合型の政体を、
極端な民主制と寡頭制に走らないように防止する
現実的に最善の国制としているので、
どこかの層に偏らないのを良しとするのは
共通点しているようでしね。

書き留められた言葉は反論を許さず、
柔軟性に欠けたものとして対話を重視する
ソクラテスの会話を記した本とは違うので、
読んでいて面白いのは『国家』の方ですね。

ソクラテスを殺したアテナの民主主義も
堕落した衆愚政ではなかったとする向きもありますが、
ソクラテスに言いがかりをつけて殺害したのは
三十人政権による恐怖政治を絶対否定するために
もう片方にブレた極端なものだったのでしょうか。

アリストテレスは中庸を重視しますが、
儒教には時中と言う概念もあり、
ジャンケンのように強みと弱みを把握して
状況により使い分ける事を重視しています。
科挙制度を導入しているところも特徴的ですね。

プラウト理論で有名なラビ・バトラ氏は
師匠のサーカー氏の学説を発展させましたが、
サーカー氏は社会支配の主導権が、
クシャトリヤ(武人)・ブープラ(知識人)・
ヴァエシャ(商人)・シュードラ(平民)の順に
循環していくとします。

そのいずれにも属さないサドビープラという
人類の発展のために献身的な奉仕を行う政治家を
想定しているところはインド的ですね。

ユング心理学では一人の人間の中に
男性原理(アニマ)女性原理(アムニス)の両方があり、
男性は男性原理、女性は女性原理発展させていき、
同じ段階の異性と惹かれ合うとします。

スポーツができる > 勉強ができる >
経済力がある > 知恵があると
年齢によってモテる中身が変わるとしますが、
循環論と違うのは内面的な成長を扱うので、
体だけ大きくなっても中身が幼稚な人のように、
それぞれの段階で身勝手な事を考え
国を滅亡させる方向ではなく、
全体をバランス良く成長させるためには、
精神的な成長も必要と言う事でしょうか。

プラトンのイデア論がキリスト教に導入されました。
父なる神が世界を創造した一神教に近いものはありますが、
プラトンの幼少期の家庭環境は良くなかったようで、
彼の哲学にも反映されている感じはします。

儒教では天を父とし地を母とするとし、
家を国の雛型としてみています。
一家が仁なら一国に仁が興るとし、
堯帝が舜に帝位を継がせられるかを
二人の娘を嫁がせ家が治めされるかで
試験したと伝えられます。

東洋は自然のサイクルと合致させる事を重視します。
太極拳では気の流れを練っていく事で
優れたパフォーマンスを発揮し、
『書経』の「月令」では季節に応じた
命令について言及されています。

環境破壊は自然のサイクルを無視していますが、
自然界との共存を考える必要のある現代社会では、
古代アジアの循環論は見直すべき価値があります。

中国では二宮尊徳を政治の腐敗に対して
価値のあるものとして活用しましたが、
孔子は道徳のみだとして退けられたそうです。
四書五経を読むとそんな事もないので、
論語だけ読んで間違った解釈をしているか、
あるいは何らかの意図があったのでしょう。

山川の神を祀り、農耕儀礼で自然と共に喜びあい、
大地を神聖なものとして扱う儒教の儀礼が見直されれば、
中国の環境破壊の方向も変わるのでしょうか。

湖西市の豊田佐吉記念館に行くと、
佐吉氏が学んだ寺子屋の地図がありますが、
二宮尊徳の報徳思想を学んだ事は有名です。

遠州には大日本報徳社の本社もありますが、
徐福により儒教が持ち込まれたとすれば、
徐福王朝の伝承の残される三遠で、
実社会の様々な段階での運営を
自然の循環と合致させる古代の知恵を活かせば、
中国の環境破壊にも一石を投じる事が
出来るかも知れません。

アテナの民主政は現在の民主主義の源流の一つとされ、
西洋文明の基盤にも関わる歴史上の重要な位置にあります。
西洋の哲学の歴史は膨大なプラトン注釈であると
語られる程にギリシャ哲学の影響は大きく、
幕末以降、西洋主導、世界に巻き込まれた日本も、
もう一度見直す価値のある時代なのでしょう。

徐福王朝に古代ギリシャの影響があるのであれば、
西洋と東洋の哲学を高度に統合した王朝が存在し、
天地と調和した繁栄を教授していたのでしょうか。
現代世界における徐福王朝の意義は
想像以上に大きなものかも知れません。

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