プラトンの『国家』と三種の神器

プラトンは『国家』で人間の魂を3つに分け、
頭に理性、胸に意志、腹に欲望があり、
理性により意志と欲望を制御する事により
それぞれが知恵、勇気、節制となるとし、
これらが調和する事で生まれる正義を含めて
四元徳と言いました。

国家も個人と同様に3つの魂を持ち、
知恵を統治者階級、勇気を防衛者階級、
節制を生産者階級の3つに対応させ、
各階級が調和して正義となる事により
理想国家になるとしています。

悪知恵を働かせ他人の痛みに鈍感で
有害だと分かっていても辞める事がなければ
一時的な快楽を得た後に身を滅ぼしそうですね。
個人なら家を潰す程度ですが、
国家なら遥かに被害と責任が大きいので
為政者の格の問題は大きいのは確かでしょう。

東洋的な感覚だとこの三つは若干違い、
儒教経典の『中庸』には三つの徳である
知情意が記されています。

これらは体の中心軸上にあるので
三丹田とも呼ばれていますが、
心身共に歪んで軸がないのは問題で、
姿勢(至誠)が重要で
格が要求されると言う事なのでしょう。

日本語にも身体表現が数多くあり、
胸が痛む、腹が据わるなど、
心身の関係は現代人より昔の方が
詳しかったようです。

儒教は修身と言って身体論が重視されるので、
理想と言いうのも太極拳をマスターして
一生磨きあげる感じで語られます。

国家も個人と共通の要素があるとする見方は
古代においては東西で共通で、
知情意を情報・経済・軍司で見れば
そのまま国家論になります。

三種の神器も知情意を意味していると言う説もあります。
これは皇位継承のシンボルとさてれていますが、
古墳からもこの三つは出土しているので、
古代日本においても魂の三分節に類似した概念があり、
共同体を統治権する者に必要とされる
三つの徳に纏わる気を身に備えるための
呪術的シンボルとされていたのでしょうか。

個人でも国家でも共通の要素があるので、
自分の身を修める事から始めるのが儒教の考えで、
日本も戦前までは修身の授業がありました。
「天子より庶民に至るまで修身を本とする」
と儒教経典の『大学』にあり、
上から下まで道理に沿った国家運営を
基礎としていたようです。

徐福がギリシャ哲学や儒教を
三遠に持ち込んだ可能性があるのなら、
銅鐸~古墳時代の日本の王権の在り方は、
プラトンの著作の全巻に目を通す事で、
ある程度まで理解出来るのかも知れません。

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