秦の始皇帝を不老不死の薬を持ってくると欺き
渡海先で王となって戻って来なかったとされる
徐福の作った王朝はどの様なものだったのでしょう。
徐福は孔子の弟子の子孫とされているので、
儒教との関わりが深かった事が強調されています。
儒教の経典の『詩経』には楚宮を建てる時に
天地の神々に伺いを立てて地霊との関係を作った事が
書き残されています。
イギリスで産業革命が起こり、
植民地拡大路線に巻き込まれる形で
西洋化していく事になった日本は、
自然を搾取対象とする様になったのではないでしょうか。
財務諸表には自然の恵みは数値化されないので、
事が起こるまでは無視していても、
食料危機や干ばつ等の有事が起これば
多大な金が必要となるか命に関わります。
環境保護なども奴隷から搾取しすぎると
自分達もやっていけなくなる程度で
根本的なところからの見直しは
まだまだ弱いのではないでしょうか。
江戸時代までの都市開発は風水を活用していたので
一般人は自然破壊に対して考慮する必要がなく、
商売で三方良しと言っても自然までは含めていません。
雑草も江戸時代には全て名前がつき
効能なども研究されてきたのに、
現代では人間の都合だけで邪魔者扱いされ、
食べれると分かっても使えないと思っていた厄介者が
多少は使えると分かった程度に感じます。
『詩経』には草も数多く登場し神事等にも使われます。
昔は草も語りかけてきたとされる時代があり、
植物との対話は普通になされていたようです。
儒教経典を紐解いて推察していくと、
徐福王朝での自然との関係は、
山や川の神々と良い関係を作り
自然と共に喜び会える王朝であった
可能性は高いのですが、
山の神は更に考察が必要のようです。
日本でも奈良の三輪山や関東の筑波山、
富士山などは神の山とされますが、
東三河には人工的に山を作った痕跡があり、
都市開発のグランドデザインを元に
自然の山との関係で人工的な山も作ったのなら、
山を聖地として禁足地にしたり、
信仰として山を神と拝んだのみでなく、
自然に対する深い認識とテクノロジーが
存在していたのでしょうか。
そうであるとすれば観光のレベルで考えるのではなく、
自然と調和した都市開発のモデルケースとしても
三遠の王朝の痕跡には価値がある事になるのでしょう。