三男の徳川光圀が長男の頼重を差し置き
水戸藩主となった事が知られています。
水戸城下の三木邸で育っていた光圀は
寛永一〇年(1633)に水戸城に呼ばれ、
家老・中山備前守は物おじしない態度から
将来の主君に選んだ事が記録されています。
光圀の上の二男は他界していましたが、
頼重は健在で跡継ぎの最有力候補であり、
頼重も堕胎されるはずが京都の寺に送られ
僧侶になる修行をしていた所を呼び戻され、
光圀より前に江戸藩邸に入っていました。
頼重が選考から落ちた理由は分かりませんが、
光圀が藩主を引退する際に瑞龍山に建てた
「梅里先生碑文」の冒頭のこうあります。
先生は常州水戸の産なり。
その伯は疾(わずら)いし、
その仲は夭(よう)す。
先生は光圀自身を指し水戸の生まれとし、
その伯(長兄)は病に倒れてしまい、
その仲(次兄)は幼くして亡くなったと、
自身が主君になった理由を述べています。
頼重は後に高松藩主となりますが、
高松の記録には江戸に戻った後に
痘瘡にかかり回復が遅れたとあり、
これが理由であると考えられます。
しかし水戸には彼の病の記録はなく、
ここから様々な推察が生まれて来ます。