江戸時代に農具の鍬を御神体とする
謎の神の祭が流行しました。
鍬神は天和二年(1682)を上限として、
定期的に東海・中部地方を中心に、
十一回流行した記録が残されています。
敗戦直後の昭和二十二年(1947)を最後とし、
五穀成就、国農民安全のための祭とされますが、
日本の祭祀も明治維新と大平洋戦争敗戦で
大幅に消失して記憶喪失状態になっていますね。
天和二年の記録には「大神宮御クワ」の記述や
「伊勢より御鍬踊廻り当郡剣村に一宿、上の保中懸踊」と
伊勢の地との関わりを見る事ができるので、
志多羅神事件から続く一連のムーブメントと
位置付ける事が出来そうです。
『鸚鵡籠中記』には元禄一六年(1703)に
木曾で祀っていた鍬神が上野国(群馬県)高崎まで
駅伝えに幟数百とともに伝えられて民を驚かせ、
幕府は尾張藩に起こりを聞くも分からず、
伊勢踊りの神木のように村から村へと
村送りで祀る事は珍しくはないが、
他国に広まるのは異様な事だと記されます。
寛保二年(1742)の踊りで次のように歌われました。
来ざる来ざると御鍬様、いまこそ来ざりた久留米まで
万の悪難追い払い、万歳氏子を引き連れて
五穀の幡をなびかせて、ただ国々も泰平に
憂しこともかよろこび
享和二年(1802)にはこう歌われています。
天照神の御慈悲にて、もはやこれよリ世の中が
千万年もよいぞさ、世間豊かになるならば
民安全の御世となる
伊勢踊りは伊勢の神主が伴いましたが、
御鍬踊りは御師が同伴しているので、
天照神とは空の太陽か古代王朝の太陽神か、
内宮の神なのかは微妙なところですね。
この祭に神宮が関与しているか聞いたところ、
関与はないとする返答があったそうなので、
内宮主導の祭ではなさそうですが、
歌の太陽神は伊雑宮に由来するのでしょうか。
文政十年(1827)に御師が村に連絡し、
今年は六一年目の御鍬様の祭りであるから
忘れないようにと伝えたそうなので、
御師が定期的に起こした祭のようです。
明和四一年(1767)遠州(静岡)山中で
御鍬様を迎えに出た氏子や神職の装束の柚に
金銀が降りかかってきた記述が残されており、
志多羅神事件や伊勢踊りに類似しますが、
外宮以外の神も関わっています。
村から村に送られる御鍬神の御神体は
木製の鍬が多く用いられており、
これは伊勢の別宮である伊雑宮の
神田を耕す儀式に由来しているようです。
豊橋に多くみられる御鍬社の御祭神も
大きく外宮の豊受大神と伊雑宮の神の
二つの系統が認められています。
御鍬祭は「ええじゃないか」と密接に関わり
この周辺を読みとく必要がありますが、
伊雑宮も参拝は行っているものの、
まだ調査に行っていないところもあり、
ここは書くのは暫く後になりそうです。
ここはある程度までは掴んでいるものの
取り扱いが難しいので書く気が無く、
要請があったので書いてはいますが、
ある程度の段階までしか書かないと思います。
とはいってもイエス・キリストなどの
既存に騒がれている内容とは違うので、
間接的に特定の宗教への勧誘をしていると
邪推しないで頂けると助かります。
古代王権の宗教や信仰については
明確な資料が残されている訳でなく、
完全に手探りの状態で良く分かりません。
ただ古代王朝の都市開発に関わる部分で
人工的に山を造った痕跡が認められるので、
御神体山を含めた取り扱いに関しての
基礎的な部分は確立する必要はありますね。
天地と調和した都市開発や国家運営が
古代王朝においてなされていたなら、
この痕跡の扱い如何で悪影響も考慮され、
目先の利害で動かせない要素があります。
御体山も価値の認識がなされず工事されたり、
奈良の三輪山では潔斎した後登山するのに、
ロッククライミングやピクニックなどで
好き勝手に上れるようになっています。
こう言った事がしっかり出来るのであれば
必要以上に情報を流さなくとも良いのですが、
神を持ち出して自らを優れたものとしたり、
パワースポット的な関わりをする事は、
基幹を無視して枝葉に流れかねませんね。
特殊な情報を知る優越感に浸るよりも、
知った事に対する責任を背負えるかが重要で、
こう言った事が出来る人だけを対象に
ブログや本で情報を流す事は出来ないので、
特殊な情報を知る事より基礎を磨く事に
力を入れて頂ける方が良いと思っています。