足利尊氏と伏見稲荷

後醍醐天皇が伏見稲荷を信仰した事は
ある程度の認知がなされていますが、
後醍醐天皇の敵となった足利尊氏も、
伏見稲荷の信仰が篤かったとされます。

尊氏が京都にある鎌倉幕府の出先機関の
六波羅探題を打倒したその三日後に
稲荷五社の領地で狼藉をはたらいた者を
重科に処する命令を出した事が、
『伏見稲荷大社文書』に見えます。

室町幕府の出来る五年前に稲荷を保護し、
困難な状況に稲荷神への祈願をする等、
伏見稲荷への崇敬が篤かったのは、
後醍醐天皇が稲荷神を重視した事と
何らかの繋がりが存在したのでしょうか。

後醍醐天皇は真言密教行者とされますが、
南朝で行われたのは真言系修験であり、
稲荷山も後醍醐天皇が治めていた頃に
修験の霊場として栄えていた可能性は、
否定出来ないものがあるでしょう。

私は後醍醐天皇が先住民族に連なる
修験道の霊場として稲荷山を復興させ、
室町幕府がこれを抹殺した可能性が
高かったのではないかと思っています。

この仮説は南北朝の全体像が分かると
必然的に導かれる説となるので、
末節の議論の位置付けになりますね。

この解明には東三河の南朝の痕跡を
研究していく必要が存在しますが、
東三河には南朝の由来する稲荷神社が
複数存在しているとされています。

いずれにせよ後醍醐天皇や足利尊氏が
伏見稲荷を重視したと言う事は、
この神が王権に重要な存在として
扱われていた事を示すのでしょう。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする