摂関政治の始まり

行基の本で称徳天皇について
色々と触れておいたのですが、
藤原仲麻呂を征伐した話は、
大規模な戦を個人の反乱に
すげ替えた事を書きました。

称徳天皇の崩御の後に
白壁王が皇位に就いた後、
皇后となった井上内親王と
皇太子の他戸親王母子に
悲劇が訪れたとされます。

宝亀三年(772)にこの母子は
天皇を呪詛したとされた事で
皇后・皇太子の地位を奪われ、
翌年には天皇の同母姉であった
難波内親王が亡くなった際にも、
呪い殺した嫌疑がかけられます。

皇族の身分を剝奪されて幽閉され、
宝亀六年四月二七日に亡くなり、
二人が同じ日に死亡した事から
色々な仮説が提唱されています。

他戸親王が廃された後には、
天皇と百済から渡来してきた
族和(やまと)氏出身の
高野新笠(にいがさ)との
間に生まれた山部親王が
立てられたとされます。

藤原式家の祖である藤原百川が、
山部親王をバックアップし、
天武系の井上内親王母子を廃除し
桓武天皇を即位させたそうです。

桓武の皇后には藤原良継の娘の
乙牟漏(おとむろ)が立ち、
これ以後は天智系の皇統に
藤原氏の娘が子を生む形が
固定化されたと言います。

本当にこの周辺は読んでいても
頭に入って来ない話なのですが、
私の研究してきた経験上、
スッキリと頭に入らない話は
捏造の可能性が高いですね。

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