以前、某神社の儀式に参加した時、
山の神の祭祀にも生きましたが、
山と言っても古墳にしか見えず、
名の忘れられた古代の有力者が
眠っている感じがしました。
橘逸勢を祀る三ヶ日の神社も、
以前は山の神として祀られ、
明治二年にな神祗官より
橘神社の社号を下されます。
ただ現地の人の話によれば、
竹藪の中に竹垣をめぐらした
一定の狭い地域を禁足地とし、
タチバナサマと称して、
神聖視していたそうです。
この墓所の地下に古鏡が埋納され、
墓所の上には橘神社の小祠が鎮座し、
地下の鏡が御霊代になっていた事が、
本坂の里人の間では公然の秘密と
されていた事が語られています。
元はここに橘逸勢の遺体があり、
娘が祀っていた所を京都に戻し、
そちらで埋葬したと言う事ならば、
秘密にする必要もなさそうですが、
私には秘密にする理由の目星が
ついている所ではあります。
ここで問題なのが逸勢の墓が
古墳であるとされる事です。
行基の本に静岡県西部の
土師氏の存在について
記しておきましたが、
逸勢の墓を作ったのが
この土師氏であったなら、
周辺の歴史が覆ります。
古墳時代は壬申の乱で
終焉したとされるので、
それ以降の古墳の造営は、
私の行基の行った研究を
用いるか否かによって、
大きく解釈が変わります。
空海の活動も土師氏が
関与した可能性は高く、
土師氏から菅原家が
出て来た事を考えると、
深層でのリンクの存在を
追及したくなりますね。