六甲山の重要エリア

以前の播磨の国は銅鐸出土数が
日本一として知られたそうです。

新たな出土がなされていなければ
新浜松市が現在トップの様ですが、
徐福渡来の周辺から銅鐸時代が
始まっている事を考慮に入れると、
徐福王朝でも重要なエリアとして
祭祀されていた可能性が浮上します。

播磨国一宮の射楯兵主神社には
兵主神が関わっていますが、
銅鐸の神がシユウである事を、
三遠式銅鐸の本に書きました。

銅鐸に画かれた独特な顔は
この謎の神に由来するそうで、
六甲山祭祀にも徐福が関わった
可能性が色濃くなって来ます。

面白い事に神呪寺から下った
坂の入り口の左右に置かれた像は
日本人と言うより中国の導師で、
徐福を思わせる風貌をしています。

六甲山周辺を徐福と関係付ける
研究はなされてはいませんが、
阪神淡路大震災の前のまでは、
神戸は日本の最先端を走った
優れたエリアだったようです。

それまでの神戸の金持ち達は、
ノブリスオブリージュで公的に
私財を叩いて貢献したものの、
それ以降は品格の無い金持ちが
多くなったと言われています。

優れた人によって優れた成果が
もたらされた事を考えると、
やはり礎は人なのでしょうね。

秦帝国から一国を作れる人材を
持ち込んだとされる徐福ですが、
状態王朝の優れた文明の影響で
栄えて来ていたのでしょうか。

徐福の研究をした私からすれば、
この歴史的な基礎を押さえずして
神戸に今後の発展を期待するのは
難しいのではないかと思われます。

紀元前二世紀頃から最先端の
技術や知識で栄えていたなら、
神戸のイメージが変わります。

この歴史観の上で活動するのと
そうでないのとの差を考えると、
余りにも甚大となり兼ねません。

これはカタカムナ云々よりも
遥かに大きなスケールの話で、
これを語れるのが現状私だけの
状況にあるのが大問題ですね。

それではマズいので研究の流れを
出すために苦労して来ましたが、
色々と頑張って欲しいものです。

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