古の内宮と外宮

『唯一神道名法要集』に仏教と習合した
両部神道の記述が存在しています。

問ふ。両部習合ノ神道トハ何ぞ哉。
答ふ。胎金両界ヲ以テハ、内外二宮ト習ヒ、諸尊ヲ以テハ、諸神ニ合はス。故ニ両部習合ノ神道ト云ふ者乎。

弘法大師ノ啓白ノ文ニ云はク、「尊神、内宮・外宮ヲ卜メテ、以テ鎮へニ日域を護り、金界・胎界ヲ示しテ、以テ正しク月殿ヲ開く。心城本位の聖衆ヲ思へバ、則ち当宮所属の眷神也」(已上文)と。此等ノ文証、勝げて計ふべからざる者哉。

伊勢の内宮・外宮を真言密教の
金剛界・胎蔵界曼陀羅に対応させ、
ここで言う神仏習合は教義でなく、
真言神道とも呼ばれていた様に、
密教と言う事になって来ます。

しかしここで疑問が生じます。

内宮より格下とされた外宮が、
頼朝が伊勢のスポンサーになり
庶民の参詣が許可された事で、
伊勢神道を広めて外宮から
参詣させるように広めた事で、
内宮と同格となったとされます。

しかしそれ以前に両部神道で
内宮・外宮が同格とされたなら、
伊勢神道が出て来た背景にも
疑問が生じる事になります。

豊橋市の東田神明社は醍醐天皇が
創建した内宮と繋がる神社とされ、
近隣には外宮や猿田彦神社すらも
存在していたと言われています。

となるとこの段階で両部神道が
伊勢の地でも行じられていた
可能性が浮上して来る事になり、
『唯一神道名法要集』すらも、
偽書の可能性が出て来ます。

『唯一神道名法要集』は卜部兼延の著と
一応は言われているそうなのですが、
祖先にかこつけた吉田兼倶の偽作とも
考えられている書ともされています。

この吉田兼倶も厄介な人物であって、
『徒然草』を書いた吉田兼好との
関係も語られてはいるのですが、
私は彼が勝手に吉田の名を語った
平家側の人間だと睨んでいます。

この周辺は情報量がそこそこあり
路線が外れる事にもなりますが、
吉田兼好については過去記事で
色々と書いた事があるので、
興味があればブログ内検索で
探してみて読んで下さい。

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