林羅山の悪評

小林秀雄氏の有名な評論「学問」には、
林羅山の評価が記されています。

総じて、外的な政治力は、思想伝統の生き死にを、本質的に左右する力は持たぬものだ。
足利初期に成熟した学問的雰囲気が瓦壊し去って、何も彼も新しく始めなければならなくなった時、学者は、僧服を官服に脱ぎ代えたのだが、学問の制度の一変が、学問に新しい命を吹き込むわけにはいかなかった。
家康も羅山も、学問の新しい利用法を思案したので、学問の志を新たにしたわけではない。

司馬遼太郎は『城塞』で大坂の陣を描き、

林道春は家康にとって都合がよかった。京の市中の匹夫の子としてうまれ、出世欲がつよく、権門のためなら物事をどう歪曲してもいいという、学問技師としての融通性をもっている。
のちかれは、幕府の意向をうけて、人間というものの諸活動を制限したりその身分を固定するための法律を考えだすといういわば悪魔的な仕事に従事し、後世の日本人こはかり知れぬ影響をあたえてしまったが、その学者としての学問的な深さは、後世からみて大したことはない。

と民を圧迫する悪魔的な仕事をし、
大した学問的功績を上げていない
林羅山像が世に広められています。

この羅山像が本当であったかは、
各々でどこまで研究したかで
評価が変わると思われますが、
そこまで詳しく調べてた人が
どれだけいるのでしょうか。

羅山について研究してみると、
全く違う羅山像が浮かび上がり、
恐ろしいレベルの問題にまで
関わっている事が分かります。

しかし羅山には悪いイメージがつき、
魅力的な研究対象として扱われず、
研究が殆ど進んでいなかったので、
この様なイメージが未だに根強く
残されているのではないでしょうか。

しかし羅山についての研究こそが、
江戸時代の闇を暴く光となりうる
可能性が秘められています。

羅山が江戸初期に大きな影響を
与えた人物であったとすれば、
明治維新を正当化したい勢力に
都合の悪い人物達の中でも、
上位に位置していた可能性が
非常に高い事になりかねません。

しかし彼の悪評は同時代にも
広められてはいたのですが、
これを広めた勢力こそが、
非常に危険でもありました。

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