安倍晴明と月見

昨日は中秋の名月でしたね。

京都に出張に行っていたので、
月見団子を購入しようとして
和菓子屋に行ったのですが、
白玉団子が無くて驚愕しました。

月見と言えば丸く白い満月の様な
団子を食べるイメージでしたが、
京都では兎か雲のかかった月の
団子が主流との話だったので、
かなりカルチャーショックです。

雲がかった月とは言っても
丸くは無く楕円形であり、
満月の力を取り込む様な
イメージが持てないので、
他の団子を購入しました。

夜に安倍晴明の神社に行き
団子を捧げてから食すと
対話した様な気分になり、
風流を感じられます。

昨日とはうって変わった
キレイな月でしたが、
何か大きい事の予兆の
感触もある月ですね。

さて京都では伏見稲荷に
少し寄って来たのですが、
ここに国学者を祀る神社が
鎮座しているとの事です。

伏見には二回行きましたが、
片方は深夜での登頂で、
もう片方は特殊な神社の
調査に行った物なので、
それ以外は周っていません。

しかし江戸の国学者の神社は
雰囲気の悪い所ばかりで、
私が嫌われているだけなのか、
復古神道その物がアレなのか、
色々と考えさせられますね。

現代の我々の知る神道は、
大本教も含めて復古神道の
影響を多分に受けています。

大本も伊勢派と出雲派の
対立の流れの上に位置し、
出雲のスサノオの復権と
深く関わってはいます。

しかし出口王仁三郎自身が
自分は偽物だと言った様に、
この一連の神道の流れには
見直すべき領域が存在し、
既存の神道のイメージを
覆えす可能性があります。

神道を語っている人の中に、
伊勢神道すら知らない人が
存在するだけで驚愕ですが、
この伊勢神道すらも国学に
変更された可能性があります。

ここで登場するのが出口氏で、
大本と関係するかは不明ですが
元伊勢が丹波に書き替えられた
可能性が非常に高そうです。

大本も丹波との関わりが深く、
この領域は語るのに苦労します。

本人が偽物と言っているので
それで十分な気もしますが、
無意味に暴露をするだけなら
時間の無駄以外の何物でもなく
生産性も何も無いのでしょう。

掘り下げると色々出て来ますが、
時代的に価値のある情報だけを
取り上げないといけないので、
扱いが難しい領域がありますね。

無闇に相手を追い詰めるだけなら
害しか生み出さない事になるので
個人的な研究で完結させても良く、
中々に読み難い時代ではあります。

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