両部神道の理論を元にした伊勢の両宮の在り方は、
江戸時代に国学派が触れない領域となっています。
内宮・外宮が密教の金剛界・胎蔵界曼陀羅に対応し、
以前は両者を参詣する事が一種の灌頂作法であり、
両部神道が隆盛していた時代の伊勢のイメージは
現代とは全く異なっていた事になりますね。
菅原道真を左遷させ地獄に落ちたとされる
醍醐天皇の勅命で建てられたと伝えられる
豊橋の東田神明宮は内宮しかありませんが、
以前は外宮や猿田彦社も存在したそうです。
となるとこの段階で密教理論を元にした
東田神明宮が建てられていた事になり、
両宮への参詣が悟りに至るための修行で、
天皇もこれを重視していたのでしょうか。
東田神明宮は豊橋市で最も氏子が多く、
田中の神明様と呼ばれて親しまれており、
私も時々参拝に行く事があります。
境内社も含め全ての社を参拝しますが、
カッパを祀ってるのが道真の伝承と
密接に関係する銅鐸の神でもある
シユウであったとする説については、
菅原道真の本に書いておきました。
となるとまだまだ隠された秘密が
存在していそうな気配がしますが、
三遠は行基とも密接に関わります。
両部神道が行基と関わるのであれば、
壬申の乱の前後を生きた行基の勢力が
邪馬台国祭祀を復興させた信仰が、
両部神道だった事になりかねません。
空海の前に行基が行じていたのは
役小角に通じる雑密となりますが、
徐福が持ち込んだアショーカ王の
仏教であったらどうでしょうか。
国家機密に関わっていた羅山は、
この情報を知った上での神道論を
展開した可能性がありますが、
これは一神教勢力にとっては、
是が非でも抹殺すべき対象と
認識される物でもありますね。