山崎闇斎の学問は崎門(きもん)派と呼ばれ、
後に勤王思想の勃興にまで大きな感化を与えた
思想の潮流を作り出したとされています。
崎門の儒教系の継承者の多くが武士階級で、
闇斎の学問が武家を代表する学問とも思える
様相を呈していたとされているのですが、
水戸藩で『大日本史』編纂に携わった人に
「崎門」に連なる者が数多く存在しました。
徳川幕府が朱子学を導入した事もあって、
崎門は武家社会や大名に広がったものの
弟子の破門や絶縁も多かったと伝わり、
林家の阿世・崎門の絶交とされそうです。
林家の阿世とは権力に迎合した事を言い、
どっちもどっち感が滲み出る言葉ですが、
闇斎の弟子が正統性を示すために書いた
『道学淵源録』の中の言葉だそうです。
となると闇斎の悪評が広がった事から、
羅山を落とし込めて崎門の正統性を
保持しようとした言葉であった線も、
十分にあり得そうではあります。
幕府が朱子学を導入した状況下では、
真っ向から否定するのではなく、
少しづつ違う方向に誘導していく
策略もよく取られる事があるので、
穿った見方をすれば裏で組織的な
思想誘導があったと言えそうです。
江戸の神道や朱子学に関しては、
羅山が悪く言われて来た事から
羅山の思想の研究が疎かになり、
崎門のそれが幕府の政治思想と
認識されて来た印象があります。
しかし江戸初期の崎門派の学問や
『大日本史』が明治維新にまで
影響を及ぼして来ただけでなく、
同一勢力による動きであった事は
余り認識されてはいませんね。
この勢力により記された文献で
江戸のイメージを構築すれば、
都合の悪い思想を隠蔽しつつ
洗脳を行っている可能性があり、
ミスリードされるリスクが
相応に高い印象を受けます。
我々が現代認識している神道も
この思想潮流の上にあるのなら、
偽の神道を信じ込まされている
可能性は無いのでしょうか。
もしそうであればその損害は、
どの程度の物なのでしょうね。