日本史編纂と羅山の死

天皇を越え実質的に政権を握っていた
徳川幕府の三代将軍家光により、
林羅山に日本史編纂が命じられます。

林羅山は正保元年(1644)に、
神武天皇から宇多天皇に至るまでの
歴史を編纂した『本朝編年録』を
将軍に献上したと言われています。

光圀はその翌正保二年(1645)に
伯夷列伝を読んで非常に感激し、
『史記』の様な日本の歴史書の
編纂を志したとされていますね。

しかし江戸幕府と光國の間では、
国家としての理想が異なっており、
光國は天皇は頂点に据えた国家像を
理想とする歴史書を編纂しました。

羅山は宇多天皇までしか記さず、
史料が不足し検証出来ないからと
ノータッチであった天皇の系譜も、
『大日本史』では記されています。

宇多天皇と言えば菅原道真が
活躍し始める時代ですが、
朝廷が契丹と組んだ歴史が
後に隠蔽・捏造された説を、
菅原道真の本に書きました。

当時の天皇は北朝であったので、
彼は南朝を正統としつつも、
北朝天皇の正統性の根拠となる
歴史書を書いた事になります。

『史記』を記した司馬遷については、
秦を侵略した勢力が秦帝国の歴史を
隠蔽するために書いた書である説は、
私の邪馬台国の本を読めば分かります。

ヘレニズム国家・秦を侵略したのが
ペルシャ勢力であったとするのが
私の研究して来た結論ですが、
則天武后と関係したソグド人も、
ペルシャ系であったようですね。

光國が則天文字の國を用いた背景が
平家=ペルシャ勢であったとすれば、
彼の背後に平家の残党勢力が存在し、
ペルシャ王=北朝天皇を頂点とした
国家を樹立するために江戸転覆の
流れを作った可能性が浮上します。

となると江戸の放火は国学派、
平家の残党による羅山の歴史書の
抹消のために行われた可能性が、
非常に高い話しになって来ます。

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