五部書批判

吉見幸和は名古屋東照宮神主である
正四位民部大輔吉見恒幸の第三子として
名古屋に生まれ家督を相続しました。

彼は『五部書説辨』で五部書を批判し、
数多くの著作も出していた様です。

幸和は垂加神道の大義名分論を終生奉じ、
国史官牒主義から吉田神道・度会神道の
偽妄を烈しく糾弾した人物として知られ、
尊皇主義者・歴史的神学の樹立者とされます。

「神道とは天皇の道なり」と語っており、
東照神君・家康を祀る東照宮の神主として
徳川と天皇との関係における天皇論を語り、
村岡典嗣氏は幸和を以下の様に評価します。

五部書説辨を著して、五部書の偽書なることを考証し、それを信奉する点に於いて垂加神道を攻撃し、まさしく彼自らとして垂加神道より螺脱する観を示しながら、その国史官牒を証文として、主張せむとした吉見神道は、実に尊王主義を本質とせるものであった。

とあり垂加神道を攻撃している様で
根っこでは共通している感もあり、
幸和の最晩年の著『神道大綱』には

幸和にとっての神道とは天皇の道にほかならず、天皇は日神たる天照大神の霊徳を継受し、天下の標的として天位を守り、先王の道を守る存在とされる。
天照大神は二尊(イザナギ・イザナミ)によってその霊徳が天日と一なることを知られ、高天原の支配者となるのである。
天皇は日神の児ゆえ、代々その正統を受け維ぎ、永遠に易わる事がなく、西土のように王位が変ずるということはありえない。すなわち君臣の分が明らかなのはわが国だけである。
神道は日神の道であり、天皇の道であるゆえ、今もなお行われているのである。

とあり東照宮の神主として徳川幕府の
権威の根元を天皇に置いていたので、
路線としては幕府寄りのようですが、
幕府は形式的に天皇を利用するだけで
監視下に置いていた状況にありました。

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