吉見は享保四年(1719)に従四位上昇叙で
上京した時に吉田家と論争して以来、
吉田家(ト部氏)の神道支配の問題を
国史の事実を元に明らかにしようとします。
国史官牒によって正偽を弁別する重要性を
吉田家との論争で痛いほど知った事により、
五部書を信奉する垂加神道も批判します。
東照神君を祀る東照宮は伊勢神宮に亜ぐとし、
彼の独特な立ち位置が察せられそうですね。
吉見氏は代々南朝に忠勤を励んだ家柄とされ、
幸和や門人の記した書物だけを見てみると、
吉見氏は皇尊の念の厚い源姓の正胤に見えます。
しかし『吉見家訓』では尊王主義者なのに
熱田神宮を見下している事が確認され、
父の園崎左近直勝が東照宮神主となり、
源姓に復し吉見氏を称したか時期などは、
現存する資料で明確にする事は出来ません。
私の南朝研究の記事を読んだ方であれば、
本当に彼が源氏で南朝側であったなら、
北朝天皇を奉じる主張をした事について、
疑問が生じるのではないでしょうか。
彼が南朝側の家系であったとするのが
幕府内に入り込み神道を特定の方向に
誘導するためであったとすれば、
彼も平家の残党勢力の一員であった
可能性すら視野に入って来そうです。
表面的には敵対している様に見せかけ
大枠で特定の方向の誘導する手法は
西洋系秘密結社で見られそうですが、
日本にも秘密結社が存在していないと
断定し切るのも難しい話しでしょう。