文献初出の『経済』

日本は戦後に経済大国となりましたが、
現在の日本経済は停滞しています。
経済の本来の在り方とは、
どの様なものだったのでしょうか。

『経済』の語を日本で最初に使用した人物は
江戸中期の儒者である大宰春台(しゅんだい)とされます。
この時代は商人が力をつけ農業から経済に重点が移り、
生産が増える事で道徳が廃れて贅沢による浪費がかさみ、
土地から収益を得る武士の生活が困窮します。
口先だけでその場しのぎの誤魔化しをし、
問題の先送りが横行していたようです。

時代の変化に対して様々な動きが出ており、
大宰春台が『経済録』の自序を書いた年に
石田梅岩が京都で心学の講席を開いています。

春台は儒教に精通して様々な本を記し、
『重刻古文考経』は中国に逆輸入されていますが、
経済についての文献で最も良く知られていて、
『経済総論』にはこう記しています。

およそ天下国家を治めるを経済という。
世を経して民を済うという義なり。
経は経綸なり。
周易に「君子以経綸」といい、
中庸に「経綸は天下の大経」というは是なり。
経綸とは、糸を治めるをいう。
布の縦を経といい、横を緯という。
工女紹布を織るに、まず経の糸を治て、
その糸筋を条逹するを経という。
此方の言に、布をへるというは是なり。綸は糸をよるなり。
また経は経営なり。
毛詩に「経始霊臺、これを経しこれを営す」というは是なり。
経は度なりと註す。度ははかると訓じる。
此方の俗語に、つもるという意なり。
宮室の造営に初にその事の全体をつもり処分するを経というなり。
済は済度の義なり。わたるとよみ、わたすとよむ。
川を渡って向うの岸に至るを済という。

政治を縦糸と横糸の織物に例えるのは
ギリシャ哲学でも同様ですが、
日本初出の『経済』は政治を含めた総合的なもので、
民を救うのを経済と呼んだので、
一部の人達の利益の追求とは意味が違います。

経済を論じる者は時・理・勢・人情の四つを
知る必要があるとしていますが、
前提とされる条件が違えば政策を変える必要があり、
現代日本の経済学は前提条件が弱いとされています。
この中で人情を一番難しいとしているのは
彼の人生経験によるものなのでしょうか。

彼は『経済録』の序にこう記しています。

先王の道を学びて経済の術に達せざるは、
例えば経方を学び人の病を治すことあたわざるが如し

経済を国家の医療と同様に考え、
治療と同様に根本が大事で
国家に制度を立てるのが本であっても
簡単には改める事が出来ないので、
対処療法もやむなしとしています。

『六経略説』にはこう記しています。

漢の時代に経済というは、六経を学びて、
国家の治道経済にこれを用いるを経術という。

儒教経典は『楽経』が失われたので
六経から五経になりました。
現代ではただの道徳論と考えられていますが、
現代に通じる経済政策についても
数多く指摘されています。

春台は五経の『礼記・王制』にある
「量入以為出」を引用し、
収入と支出を全て数値化して管理し、
経費を見積もって準備しておき、
軍備や不作に対する準備や食料の備蓄などの
リスクヘッジにも言及していますが、
当時はこの基本が出来ていない藩が多かったようです。

貨幣論や富国強兵などにも言及しますが、
いずれも道理をベースに語っていて、
覇道ではなく王道を説いています。

春台は二宮尊徳が西洋に二百年先駆けて
信用組合を作ったのと同様に、
イギリスの経済学者リカードの比較生産費説や
パーキンソンの「現代社会における官僚機構は
必要性の有無に関係なくその規模を増大させていく」
と言うパーキンソンの法則よりも早くに
同じ内容を指摘してたそうです。

富める者が貧困者を遠ざけて豊かにせず
裕福な者には節度を越えた贈り物をする事に対し、
君子は貧弱救済のために財を惜しまないが
富者の富を継ぎ足す事はしないと語ります。

明治維新で江戸は切り捨てられ西洋化されましたが、
儒者により道理をベースとした経済が語られ
西洋よりも進んでいたところが多々ありました。

日本が明治以降に世界に大きな影響力を行使したのも
江戸の教育を受けた人が社会の中枢にいたからだとすれば、
経済も原点から見直す必要があるのでしょう。

春台は古代中国の経済を理想としましたが、
殷などに日本の影響があった可能性については
いずれ出そうと思います。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする