延佳と同時代の外宮の祠官・龍熙近は、
神道五部書など伝統的な伊勢神道の理解に
神仏習合論からの研究が必要だと提唱し、
神宮が仏教を受容した歴史を研究した
『神国決疑編』を著したとされます。
仏教と言っても伊勢神道を見ると
密教的な表現がなされており、
行基が伊勢について修験道的な
書物を著述した事は書きましたが、
修験と言えばアショーカ王です。
現代では伊勢は国学的な流れで
仏教と関係無かったとされますが、
明治維新以前は内宮の鳥居前町や
外宮の鳥居前町に多くの寺があり、
萩原龍夫氏は「伊勢神宮と仏教」で
この周辺の研究をしています。
宇治山田市史を参照してみると、
江戸時代の寛文六年(1666)は
神宮の周辺に371寺が存在し、
安政二年(1855)は120寺まで
減少した事が確認されるそうです。
山田奉行の桑山貞政が大規模な
廃寺政策を取ったとされますが、
大都市でない近世初頭の宇治山田に
彪大な寺院が存在した背景には、
何が存在していたのでしょうか。
七世紀に編纂された『続日本紀』
文武天皇二年(698)の記事に、
「多気大神宮寺を度会郡に遷す」
と外宮と寺院の関係を示します。
多気の地は斎宮に近いのですが、
ここに大神宮寺が存在していれば
非常に面白い事が見えて来ます。
698年は壬申の乱が終焉した後、
古事記・日本書紀が編纂される
前の段階に当たっていますが、
百済からの侵略戦争に纏わる
様々な問題がありそうです。
神宮祭主の大中臣氏が神宮の近くに
蓮台寺を建立するだけに止まらず、
内宮神官の荒木田氏が法泉寺と田宮寺、
外宮神官の度会氏が常明寺を建立し、
寺院との関係が深かったようです。
お伊勢のかへりに朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参宮
と伊勢に古くから伝わる伊勢音頭にあり、
室町時代にば朝熊山山頂付近の金剛證寺は
神宮の鬼門を守る寺・神宮の奥之院とされ、
戦国時代から江戸時代初期にかけては
権力が及ばないアジールとなっています。
空海が金剛證寺を建てたとされるので、
伊勢と両部神道の関係を探るための
重要な痕跡となっているのですが、
何時から伊勢が神道一色のエリアと
考えられ始めたのでしょうか。