仏教思想と天道

林羅山の神道では外にいる神々だけでなく、
自らの内にある神性を磨く事が重視され、
支配・従属関係とは異なる神道が政祭の
ベースになっていた事が確認されます。

しかし牛一の書いた複数の書物の中には、
中世の世界観とは異なる天道と人の関係が
江戸時代初頭、慶長の初め頃に成立し、
仏教思想に新たな流れが出て来たのを
伺う事が出来る記述が残されています。

無筋目御謀叛思食たち仏天之無加護ケ様に浅猿敷無下無下と御果候
……御自滅と申ながら天道恐敷次第也

如此御慈悲深き故に、諸天の有御冥加而御家門長久に御座候

仏天の有加護て三国無隠御名物被食置於本朝

などの『信長公記』の記述が見られますが、
仏天と天道が結びついた表現だけでなく、

斎藤道三は、名人のやうに申し侯へども、
慈悲心なく、五常をそむき、不道さかんなるゆへに、
諸天の冥加にそむき、子に故郷をおいだされ、
子に鼻をそがれ、子に首をきられ、
前代未聞のことどもなり、天道おそろしき事

と儒教の徳目である五常とも絡められますが、
奈良の大仏殿を理由も無しに焼いた松永弾正が
後に同じ月日の同時刻に信長軍に焼き殺され、
「春日明神の所為也と諸人舌を巻事」とします。

牛一の時代は神道・仏教・儒教が混雑し
尊重された時代背景がありましたが、
後に甫庵は神や仏の働きが排除され、
超越者が天に一元化される思想にまで
変遷していく流れがここに見えます。

林羅山は神道と儒教の合一を提唱し、
江戸初期から仏教よりも神道や儒教が
政治で議論される様になりますが、
牛一の流れを汲む思想においても、
仏教的な物が排除されて行きます。

外なる神を恐れさせ従属する信仰は、
時代の流れに沿わせつつも少しづつ
特定の方向に誘導していった物である
可能性が浮上して来る事になります。

これが個人でなく表に出て来ない
組織的な活動の下になされたなら、
私の言う所の日本のDSの動きを
見る事は十分に可能でしょう。

江戸時代初期は徳川國光も活動し
『大日本史』を編纂していますが、
この段階で宗教で江戸を乗っ取る
動きが出ていたとするのであれば、
関係性を洗い直す必要があります。

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