羅山と豊臣滅亡

慶長十年(1605)に惺窩の推薦で
林羅山が家康に会えたとされており、
その二年後に試験を受けて合格し、
幕府に登用されたと言う事です。

慶長十九年(1614)には大坂冬の陣の
原因となった方広寺鐘銘事件が起こり、
林羅山の悪名が後世に轟く事になります。

東大寺に習い大仏を安置する寺として
豊臣秀吉が創建した方広寺が地震で壊れ、
家康に寺の再建を勧められた秀頼が
途中まで建て直した所で火事が起こり、
やっとの事で大仏殿を完成させて
開眼供養と堂供養まで辿り着きます。

開眼供養の勧め方を何度も確認し
家康に了承を得ていたのに、
予定の一月前辺りで事件が起きます。

金地院崇伝が梵鐘の銘に不吉な語があり、
「国家安康 君臣豊楽」の国家安康を
家康の文字を分断する呪詛と主張します。

ここで羅山のアドバイスにより
豊臣への戦が始められたとされ、
羅山が極悪人に仕立てられました。

しかし当時の羅山は若手であり、
役職も高くは無かったので、
ただ頭が良かったと言うだけで
そこまでの影響力を行使し得たか
疑問が提唱されて来ています。

羅山による豊臣の言い掛かりが
行われていなかったとすれば、
歴史が大きく塗り変わりますが、
歴史を偽造した勢力の存在すら
考慮に入れる必要も出て来ます。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする