京都で禅宗の僧侶となった惺窩は、
僧侶の堕落に愛想を尽かした事で
三〇歳代の半ばに儒者に転向。
豊臣秀吉の朝鮮侵略で捕虜となり、
日本に連行された儒学者の姜沆に
朝鮮の朱子学を学んだとされます。
これは藤原惺窩だけに止まらず、
日本の儒学にとっても画期であり、
彼の門下生の林羅山と松永尺五が
近世の儒学を全国に普及させたと
伝えられている様ですね。
松永が京都の地に私塾を開いて
育成した多数の門下生の中の、
木下順菴の門下の新井白石や
雨森芳州、宝鳩巣などが、
儒学に多大な影響を及ぼします。
ただ問題となって来るのが、
惺窩が一子相伝の儒教の奥義を
伝えた記録が存在する事で、
彼の儒学が李氏朝鮮のそれでなく
南朝の朱子学をひいていれば、
江戸のイメージが覆えります。
羅山の神道は朱子学とペアで、
惺窩に学んだ羅山の神道が
南朝の信仰であった可能性が
高い事になってしまうのなら、
北朝側から都合の悪い歴史と
認識されたのでしょうか。
江戸時代の天皇は北朝であり、
江戸幕府は威光だけ利用して
飼い殺しにしていましたが、
南朝側であれば当然でしょう。
南朝と鎌倉幕府が地続きであった
説を唱えているのは私だけなのか、
この説を前提として考えるのなら、
頼朝に恨みを抱く平家の残党が
暗躍していそうな気配がします。
そして羅山に敵対していたのは、
北朝側の神道家達でした。