伊勢の神宮寺

伊勢の地に神宮寺が存在した事は、
公式文書とされる物で確認できます。

光仁天皇即位2年後の宝亀三年(772)八月、
『続紀』は度会郡にあった伊勢の大神宮寺が
飯高郡度瀬山のかたわらに移されたとし、
同十一年(780)二月に更に遠くまで
移す事が命じられた事が記されています。

祟りが移建の理由とされていますが、
光仁天皇は称徳天皇崩御後の政変の中で
即位した事はそれほど知られてはおらず、
桓武天皇の父として知る人ぞ知るですね。

この周辺は私の行基の本を読んで頂ければ
私の言いたい事が分かるとは思われますが、
何でも教えて貰えば良いと言う話ではなく
自分で考える事が重要と思ってはいます。

別に間違っても自分はこう言う根拠で
こう思うと言うだけなら問題はなく、
畳み掛ける様に否定する人の方こそ
大人気ない感じもしてしまいますね。

まあ私の説も語ってはおかないと
後々問題が出る可能性があるので、
一応は提唱しておく事にします。

この周辺にアジア全土を巻き込む
安史の乱が勃発していますが、
日本国内でもこの戦に連動して、
先住民族側と侵略者側の天皇家で
戦争が行われた可能性があります。

ここで先住民族が勝利したので、
平城京から逃げ長岡京を設置し、
復習劇を繰り広げた感じです。

この時点では伊勢は先住民族側が
取り戻していた事になるのなら、
神宮寺は行基に連なる勢力により
建立された可能性もありますね。

平安時代に入ると伊勢の神宮の神域で
仏教に関わる物事が忌避とされた事が、
延麿二十三年(804)に成立した
『皇太神宮儀式帳』の中に見えます。

平安京に遷都し先住民に戦争を仕掛け、
伊勢の地を奪い取りアショーカ王系の
神宮寺を排除しようとしたとする説を、
ここに提示しておく事にします。

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