林羅山の時代は学問や教養が
立身出世と結びつくのは
僧侶の社会だけだったとされ、
戦が終わり武士が学問を求め
儒学を教学として導入した事で、
僧侶の出世が拓かれたそうです。
『年譜』では文祿四年(1595)に
十三歳になった林羅山は元服して、
建仁禅寺大統庵の長老慈稽の室に入り
書を読む事になったと言われています。
京都市東山区の建仁禅寺は
臨済宗の開祖・明庵栄西が
鎌倉二代将軍源頼家の援助を得て
建仁二年(1202)創建された、
京都最古の禅寺とされています。
京都五山の第三位とされ、
十世住持の円爾弁円が宋から
朱子の『大学章句』『大学或問』
『中庸或問』『孟子集註』など
四書五経の新注書十二部その他
多数の儒学書を招来して以来、
多くの関心を持った禅僧が
住していたとされています。
仏儒一致思想の伝統があった事から、
仏典以外に儒書も多く蔵しており、
当時の五山は仏教の禅を修業より
学問や詩文を重んじたと言われます。
羅山が学んだ古澗慈稽との関係は、
寺を去った後も文学の師友として
死ぬまで交流を続けとされており、
現代では余り見られない関係です。
羅山は学問で立身出世をするために
寺に入ったとみられていますが、
源頼家が関わったなら禅ではなく
密教寺院であった可能性がります。
東三河では南朝系密教寺院が
室町幕府によって曹洞宗に
改宗させられた事例が多く、
南朝では朱子学が官学として
重視されていたと言います。
江戸幕府は鎌倉幕府の流れを
汲んでいたと言われる事があり、
南朝の位置付けで幕府運営の
見方が変わって来ますね。
羅山の朱子学も南朝に通じる
可能性がゼロではないので、
江戸が南朝をひいているなら
イメージが変わりますね。
私の南朝説は今までにない物で、
戦前の三河吉野朝説と部分的に
被る領域はあるのですが、
これを前提とするか否かにより
認識の変更が求められる所が
浮上して来る事になって来ます。