
八面神社の楠木伝承
豊川市御油町の八面神社は、楠社と呼ばれていたと言います。 三河吉野朝の研究においては、この周辺に王田殿という御所が有り、長慶...
遥かなる太古の三遠と今後のビジョンの探求
豊川市御油町の八面神社は、楠社と呼ばれていたと言います。 三河吉野朝の研究においては、この周辺に王田殿という御所が有り、長慶...
三河に南朝が拠を構えていた研究は既に多数の文献が書き残されています。 吉野の南朝はダミーであり、三河吉野朝こそ正当とする説は...
某神社の神主さんに御祭神についてお話を聞く機会がありましたが、こちらが教えて欲しいとの事で、何か歯切れが悪い隠している様な印象を受けた事が...
『青木文書』には寛成親王(長慶院)が天皇山明燈院(豊川市御油町西沢)で降誕し、六歳の時までここに住んでおられ、明燈院の細川貞海和尚と共に吉...
三河南朝を伝える『青木文書』ですが、常緑樹の実が青から赤に変わるので、実(身)が変わる(代わる)事から、青木は身代わりを意味していると、藤...
三河の南朝は以前から議論されており、様々なところに記録が残されてるので、本来は目新しい説では無いのですが、戦後に下火となった後は学会ですら...
ある程度は周辺情報を押さえてきたので、 そろそろ本丸の東三河の南朝の研究を 手掛けていこうかと思います。 ここに南朝(吉野朝)の正流が存在...
東三河に南朝が存在したと言うと、 突拍子もない事を言って権威付ける 山師扱いされかねないと思いますが、 豊川市「市勢要覧 昭和28年版」に ...
愛知県豊川市御油町欠間の中西家に、応永三十年(1423)と三十一年(1424)に南朝忠臣・千種忠顕の子孫である青木平馬が書き残した『青木文...
後醍醐天皇の修した真言立川流は邪悪な術として語られて来ましたが、近年この認識を覆す複数の研究が提出されてきています。 13世紀前半か...