京都に持ち返された逸勢の遺体が
どこに葬られたかについては、
仁安元年(1166)に橘以政が
編したとされる『橘逸勢伝』に、
墓の所在が記されています。
『文徳実録』の嘉祥三年五月壬辰条の
記事の中に以政が付した割註があり、
嘉祥三年五月壬辰。追贈正五位下。
詔下遠江国。帰葬本郷。
(謂蚊松殿歟。姉小路北堀川東。有逸勢墓。)
妙冲負屍還京。時人異之。称為孝女。
と記されている事から推察出来ますす。
謂蚊松殿歟。姉小路北堀川東。有逸勢墓と
割注に記されてある事から推察すると、
十二世紀後半までは墓所の所在の情報が
残されていたのでしょうか。
蚊松殿は逸勢の邸宅のあった場所で、
京都に遺体を戻し埋葬しとする伝承が
残されている事が分かりますね。
現在は帰葬後の逸勢の墓所は
全く不明となっていますが、
推定地はあるようです。
ただ遠江の橘神社に直接行って
参拝した身から言わせて頂くと、
京都の邸宅云々話は若干微妙で、
遠江が本拠地であった可能性は
相応に高いのではと思っています。
現在は寂れた静岡県の西の端の
山脈付近に鎮座した神社ですが、
豊橋から浜松に行くルートは、
山脈を迂回した平地でなく、
山越えルートがあった事が、
その理由となっています。
しかし、私はこの周辺に
古代王朝が存在していた事を
研究の結果導き出しており、
逸勢がその政治中枢で活躍し、
大規模な戦に関わった線が
高いのではと睨んでいます。