則天武后と仏教

則天武后は仏教を保護し、
大雲寺の名もつ寺が
各州に建立されており、
遥かタリム盆地にまで
見られたと伝えられます。

しかしこれは仏教でなく
マニ教寺院とされており、
弥勒信仰で重なります。

至る所の鄉村にも精舎が濫立し、
武則天の後の仏教の弊害は、
更に激しくなったそうです。

当日の貴族は争って仏寺を営み、
一般の人民が徭役を避けるために
僧侶となる者が各地に充満し、
社会的問題となっていたそうです。

更にはマニ教寺院では奴隷も
用いられていたとされますが、
仏教と言っても一系統として
捉える事は難しいですね。

しかもマニ教寺院は政治にも
深く関わったとされており、
武則天の信仰した仏教とは、
信じれば救われると言う
釈迦の教えとは関係ない
一神教の影響の濃い物です。

かの鑑真は阿育王寺に
監禁されたとされますが、
アショーカ王の仏教も
当日の中国で認知され、
大乗仏教と別の系統として
扱われていた線が濃いです。

玄宗は五台山の文殊信仰と
密教を保護していますが、
文殊菩薩は岩戸開きの本に
詳しく書いておいたように、
ヘレニズムに関わります。

大雲寺は国分寺のモデルに
なったとされているので、
日本との関わりも深いです。

鑑真も大曇寺に関わるので、
この周辺の歴史は政治より、
ヘレニズムと一神教勢力の
宗教対立流として見る方が、
解釈は容易となりそうです。

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