豊川稲荷の様々な伝承の中に
平八稲荷の伝承も存在しており、
浜松で以下の様に伝承されます。
今は昔、都田村新木に平八という
親切なおじいさんが住んでいた。
平八爺さんはもとは、白狐だったが、
皆のことをよく気にかけて優しかったため、
村人たちに慕われていた。
ある年、長雨が続いたことがあった。
その時、近くを流れる都田川を
平八爺さんはじっと見ていた。
しばらく川を眺めた後、突然、
平八爺さんは村人たちに
山の方へ逃げろと大声で言った。
なにか起きたのかと村人が尋ねても、
ただただ急いで逃げるよう叫び続けた。
平八爺さんの真剣な声に村人たちは従い、
山の上に登った。
その時、川の水が氾濫して
村全体を飲み込んでしまった。
こうして、村人たちは助かったのだが、
平八爺さんの姿が見えない。
かわりに、都田川の荒い流れの上を
ぴょんぴょんと跳んでいく、
一匹の白狐の姿があった。
その後、平八爺さんを都田で見ることはなかった。
「平八さんは白狐だったが、良い人だった」
と村の人たちはお宮を作って稲荷神社としてまつった。
それが現在新木にある「平八稲荷神社」である。
別の伝承では豊川稲荷開創の時に、
東海義易(とうかいぎえん)禅師の側で
一つの釜で様々な食事をつくり、
様々な手伝いをする老翁が平八とされ、
平八が豊川稲荷で重要な事が分かります。
平八郎は東海義易に仕えた狐で、
ダキニ天の食事の世話係とされますが、
伊勢外宮の神も食事係とされますね。
平八郎はインドから来た狐で、
上位の狐とされていますが、
インドといえばダキニ天や、
それを持ち込んだ徐福にも
関わってくる可能性があります。
平八郎には三百一もの眷属がおり、
どんな事も出来ない事はなく、
どんな願いも叶うと伝えたそうで、
平八郎稲荷とも呼ばれるそうです。
八は先住民族祭祀の鬼道で重視されますが、
先住民族祭祀と関係があったのでしょうか。
平八郎が豊川稲荷の前にいたのが
西島稲荷とされていますが、
境内に役小角の像が存在しています。
神社に実地調査に行きましたが、
昔の資料は残っていない様ですが、
この神社で修験も行われていたなら、
重要なヒントの可能性があります。
修験道がいつ頃に修されていたかが、
平八郎と修験道の関係のあるなしに
関わって来る事になりますが、
豊川稲荷も曹洞宗ではなく修験道が
行じられていたのでしょうか。
平八稲荷神社は豊川から県を跨いで
浜松方面に行った川辺にある神社で、
ここと豊川稲荷の関係は他にもあり、
ブログでは書きませんが設計思想に
高度な技術があった事が伺えます。
修験と言えば鬼道に通じる役小角ですが、
南朝も修験を行じていた痕跡があり、
修験の聖地とされる吉野とも関わります。
東海義易が豊川稲荷を建てたのは
南朝より後の時代とされていますが、
隠された領域が存在していそうですね。