承和の変

薬子の変からの皇位継承の流れが
承和の変の原因となった事が、
既存の歴史で語られています。

薬子の変の勝利者の嵯峨天皇は、
実子ではなく異母弟であった
大伴親王(後の淳和天皇)を
皇太弟としたとされています。

弘仁十四年(823)年に嵯峨天皇が
譲位した事で淳和天皇が即位し、
嵯峨天皇の実子の正良親王が
皇太子に定められます。

天長十年(833)に淳和天皇が譲位し、
正良親王が仁明天皇として即位すると、
次の皇太子は嵯峨上皇の意向により、
淳和上皇の子の恒貞親王が立てられます。

承七七年(840)に淳和上皇が崩御し、
再来年には嵯峨上皇も重い病に伏し、
皇太子である恒貞親王に仕えていた
伴健岑・橘逸勢は危機感を持ち、
恒貞親王を東国へ移す事を画策。

この計画を阿保親王に相談すると、
親王は嵯峨上皇の皇太后であった
橘加智子に密告したそうです。

皇太后は夫の良房に相談し、
良房が仁明天皇に伝える事で、
承和九年(842)七月に
嵯峨上皇が崩御した後に、
仁明天皇が伴健岑と橘逸勢を
逮捕する事となります。

恒貞親王は皇太子を廃され、
伴健岑は隠岐から出雲へと左遷、
橘逸勢は伊豆に流罪とされるも、
途上の遠江国で死亡した事が、
世にいう承和の変とされます。

しかし書いていて何ですが、
本当に頭に入って来ませんね。

結論から言えば二系統あった
皇室の流れが一本化する
重大な事件と位置付けられ、
ハイそうですかで終わりそうな
簡単な事件の扱われ方ですね。

私の行基の本を読んだ方なら、
ここに疑問が出るのは当然です。

事件の前提とされる状況から
全く違っていたとする説を
本に書いた身からすれば、
この周辺に質問が来たら、
返答如何では説が瓦解する
可能性すら存在しています。

人に突っ込まれる前に
自分で説明しておこうと
資料を纏めていくと、
膨大な量で死にそうな
日々を送っていましたが、
何とか形に出来ました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする