弘仁新羅の乱の起こった823年には、
嵯峨天皇が譲位して淳和天皇が即位し、
大宰大弍の小野峯守が大宰府館内に
公営田(くえいでん)制を設けたと
伝えられている年ですね。
橘逸勢の承和の変の結果によって
淳和天皇の系統が途絶えてしまい、
嵯峨天皇の系統に一本化されたと
伝えられる所ではあります。
新羅では前年の822年3月に、
武珍州(全羅南道、光州広域市)・
菁州(慶尚南道晋州市)・
熊川州(忠清南道公州市)の
都督職を歴任した金憲昌が
反乱を起こしたとされています。
彼は熊津(公州市)を都とし
長安国と名着けますが、
国土の大半が金憲昌を支持し、
王権に反乱を起こしたそうです。
反乱は一ヶ月ほどで鎮圧され
大事には至っていない様ですが、
乱の鎮圧に活躍した討伐軍は
貴族の私兵と花郎集団とされ、
兵制の無実化していた事を
示す事になったとされます。
新羅で反乱が起こった翌年に、
遠江で新羅人700人によって
乱が起こされたとされるので、
この周辺は新羅が徹底的に
悪く言われるのが分かります。
小野峯守(みねもり)は
小野篁(たかむら)の父で、
篁は最後の遣唐使とされる
承和の遣唐使に選ばれるも
破棄して流罪になった事で
有名な人物とされています。
承和の遣唐使は新羅側に
多大な助けを得たとされ、
張宝高は円仁の帰国を
助けた事で有名です。
小野峯守が大宰府において、
遣唐使に纏わる業務の一環で
新羅と関係を持っていたなら、
小野篁には新羅と関わる
隠された領域が存在する
可能性が浮上してきます。