阿倍倉梯麻呂

飛鳥の調査に行きましたが、
ここには安部文殊院が存在し、
西には吉備の地名もあります。

安倍晴明についてスピ系の人が
話をする時に殆ど触れ無くても、
学術的な研究をしている人には
そこそこ触れられる人物に、
阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)が
挙げられるのでないでしょうか。

阿倍倉梯麻呂は阿倍鳥の子で、
推古・舒明・皇極・孝徳の
天皇に仕えた中央豪族とされ、
大化の改新で左大臣に任命され、
大化改新の主導層として活躍。

推古天皇に仕えたと言う事は
聖徳太子とも関わる事になり、
四天王寺の仏事を行ったり
百済大寺造寺司を務めたとも
伝えられている人物ですね。

倉梯麻呂は左大臣という最高幹部となり、
蘇我倉山田石川麻呂が右大臣とされるも
改新の詔・公地公民制・国郡制等の核心は
中大兄皇子と中臣鎌足らが主導したとされ、
形の上でしかなかったと見られています。

そしてこの人物こそ安倍文殊院を
建てたと伝えられているのですが、
安倍晴明の先祖ともされています。

こう言う話は頭に入って来ないので、
実績にまわって雰囲気を感じた上で
洗い直さないと1ミリも進まない、
困った頭の構造をしています。

このエリアは神武東征に出る
イワレの地ともされており、
カムヤマトイワレビコの由来に
用いられた地名とされますね。

となると安倍晴明のルーツは
王権の根幹に関わっており、
ぽっと出の術者ではなかった
可能性が高そうではあります。

大化の改新があったかどうかは
平将門の本に書きましたが、
ここはかなり微妙なところです。

推古天皇や聖徳太子の実在性も
疑問符だらけの時代であって、
騎馬民族渡来説は否定されても、
私は壬申の乱こそ侵略戦争の
可能性が高いと見ています。

更にこの地は安史の乱にも
関わる問題が存在しており、
行基の本に書いてあります。

これらの前提知識の上でないと
安倍晴明の謎が解けないなら、
書けるのが私しかいないと言う
困った状況になりかねません。

安倍文殊院の地に秘められた謎を
解くための鍵は得られましたが、
これを説明しようと思うと
書く分量が嵩むのが難点で、
問題は私のスペックの方ですね。

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