『扶桑略記』にみる契丹との関係

『扶桑略記』は契丹との関係を、
醍醐天皇延長八年(930)四月朔日条、
丹後国に来着した東丹国の使者が、
元渤海民でも東丹国の臣であるのに
契丹国王の罪悪を語った事に対し、
臣となったのに許されぬと追い返し、
断絶関係に入ったとしています。

930年と言えば菅原道真の崩御が
903年とされているのでラグがあり、
それ程関係ないと思えそうですが、
醍醐天皇が道真を太宰治に左遷させ、
怨霊騒ぎとなった背景に関わるか、
調べていく必要がありますね。

この記述では彼に契丹国王の
悪口を言わせているので、
直接非難をしてはいませんが、
渤海国を滅ぼした契丹に対して
悪く思っていた事は確かでしょう。

日本の朝廷は渤海との関係が深く、
信仰的にも通じていたので、
契丹を悪く言いたい背景には、
宗教的な背景を感じます。

大宰治(筑紫都督府)が唐の
植民地管理施設であったなら、
大宰治送りは左遷ではなく、
政治犯扱いをされていた
可能性すら浮上してきます。

道真が遣唐使を廃止したのは、
醍醐天皇の前の宇田天皇の治世、
894年の出来事とされています。

これ以降のアジアの大変動に、
日本が鎖国で通し切れたとは、
到底言い切れないでしょう。

この時代の様々な事件の解釈を、
契丹との関係で見直す事は、
今後のこの時代の歴史研究の
課題の一つとなりそうです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする