渤海の滅亡前の延喜十九年(919)に
二度目の来日をした裴璆(はいきゅう)が
最後の渤海使となったとされます。
延長四年(926)に契丹に攻撃され
渤海国が滅亡した後に東丹国が建てられ、
裴璆は経験を買われて東丹国使なり、
日本に派遣されたそうです。
日本の朝廷はこれに対し、
前回の詩席で裴璆と同席した
藤原雅量を存問使として派遣し、
裴璆に対応させたとします。
ここで渤海の滅亡に伴う様々な悲運を
旧知であった雅量に語ったものの、
この報告を受けた朝廷は裴璆を非難し、
夷狄の軍門に降って二君に仕え、
あまつさえ、現在の主君の罪業を言う
と文書をしたため非礼な東丹国とは
国交しないと放還したとされ、
契丹との国交が存在しなかったと
伝えられて来てはいます。
契丹との国交が無かったとされる話が
ここにしか根拠が存在しないのなら、
本当に鎖国状態であったか疑問であり、
国内外の歴史を総合的に検討すると、
信憑性の高さに問題が出て来ます。
この前提が崩れると何が分かるのでしょう。
唐や渤海が滅亡し契丹が隆盛する情勢下で
道真公が大宰府左遷で死んだとされますが、
この周辺を解明する事で天神信仰の謎が
紐解ける可能性が秘められています。