平城天皇とその皇統を葬った
嵯峨側の朝廷のその後を見ると、
妃である桓武皇女の高津内親王が
業良(なりよし)親王を産むも、
後に妃を廃されています。
その理由は記されておらず、
嵯峨天皇の後継者となるはずの
業良の死去も貞観十年(868)に
記録されていますね。
彼の薨伝には精爽が変易し
清狂で慧くなかったとされ、
病無くして死んだとあって、
母子共に不穏な気配を
感じさせる最期ですね。
嵯峨天皇は右大臣であった
藤原北家の内麻呂の娘の夫人の
緒夏も子を生まなかった事から、
正良親王(仁明天皇)を産んだ
橘嘉智子が力を得たとされます。
嵯峨天皇は仁明天皇に譲位し
院となったとされますが、
この仁明天皇から淳和天皇の
周辺にも厄介な話があります。
行基と共に活動した橘諸兄の死後、
大仏建立に反対した橘奈良麻呂の
孫であったのが嘉智子とされ、
大規模な反乱を起こしたとされる
奈良麻呂の孫が次期天皇を生む
意味不明な流れとなっています。
橘加智子とは何者なのでしょうか。