円仁の日記の信憑性
会昌の廃仏についての円仁の日記への記録は、情報源が問題となります。 皇帝の悪逆無道な話は都から遠く離れた場所で聞いた物とされており、...
遥かなる太古の三遠と今後のビジョンの探求
会昌の廃仏についての円仁の日記への記録は、情報源が問題となります。 皇帝の悪逆無道な話は都から遠く離れた場所で聞いた物とされており、...
会昌の廃仏は道教に傾倒した武宗の取り巻きであった趙帰真などの道士達による策謀と見て良いのでしょうか。 この弾圧に加わった李徳裕は、必...
円仁が修行したとされる大慈寺は行基による開山とされていますが、後世の付会とも言われています。 第二祖の道忠は武蔵国の出身で、平城京に...
十世紀中頃に編纂された『旧唐書』は会昌の廃仏の最初の公的記録ですが、仏教弾圧は少ししか触れていません。 後世に弾圧と呼ばれているもの...
会昌の廃仏後の時代の新羅は衰退の流れにあったとされ、金両基著の『物語韓国の歴史』は、新羅の滅亡をこう記しています。 934年、新羅は...
846年に武宗が死んだ事により会昌の廃仏は終焉を迎え、牛李の党争も終わったそうです。 854年に江南地方の諸藩鎮で次々に反落が起こっ...
宣宗は晩年に道教に耽溺し、不老長寿の薬を服薬する事で、大中十三年(859)に中毒で崩御した事が伝えられます。 道教憎しは円仁の記述か...
会昌の廃仏は武宗が死に、李徳祐が中毒死した事で終演したとされています。 次の皇帝となった宣宗は、治世に一定の成果を挙げて小太宗と呼ば...
会昌の廃仏が唐のみでなく、チベット王の仏教弾圧とも連動していたとすれば、ウイグルに疑問が出ます。 唐・チベット・ウイグルが三国会盟を...
李徳裕の『会昌一品集』巻二の中に、「幽州紀聖功碑銘」が存在します。 回紇が首都長安で壮麗なマニ教寺院を建立し、ここを中心に政治上の勢...