橘奈良麻呂の変について、
藤原仲麻呂への抵抗でなく、
孝謙天皇の即位への反発が
本質であったとする説が
近年提示されています。
『続日本紀』天平宝年(757)
七月庚戌(四日)条では、
天平十七年(745)に聖武天皇が
難波に行幸した時に病気になり、
奈良麻呂は病状が悪化しているのに
まだ皇嗣を立てていないので、
政変が起こる懸念を語っています。
ここで多治比国人・多治比犢養・
小野東人に声を掛けて、
黄文王を皇嗣に立てようと
佐伯全成(またなり)に語り、
後に尋問を受けた全成が
自白したとされています。
奈良麻呂は孝謙天皇に不満があり、
黄文王を立てる陰謀を企てたと
記されている事が根拠となり、
考謙天皇を間接的に悪く言う
文章構成となっています。
この女帝は道鏡と関係を持ち、
徹底的に悪く言われる人物で、
色々と書ける事はありますが、
R18な話が多いのが難点です。
行基の本に書きましたが、
考謙天皇は唐と連合して
朝廷と戦った可能性が
非常に高い人物です。
であれば橘奈良麻呂は、
考謙天皇側について戦い
朝廷に勝利した事から、
触れられたくない歴史と
認識されていたのでしょう。
奈良麻呂のは橘諸兄の子で、
諸兄については行基の本に、
行基と共に活動していた
祭祀王とする研究について、
色々と書いておきました。
彼の娘が嘉智子であれば、
嵯峨天皇の后となった話は
完全に捏造となりますが、
嘉智子の様々な功績は
復興王朝の元で為され、
逸勢も関与したのでしょう。
嘉智子は奈良麻呂の娘で、
なぜ敵対側の天皇の后に
なり得たかについても、
疑問の余地が残ります。
橘逸勢が復興王朝の
キーマンであったなら、
承和の変の解釈は
根本的な部分から
変わる事になります。