会昌の廃仏が終わったのが846年、
武宗の後に宦官により擁立された
宣宗により仏教弾圧が終わったと
伝えられている所ではあります。
しかしここで本当に会昌の廃仏が
終わったと言い切れるでしょうか
宣宗の伝承は一方的に宦官側に
都合の良い内容しか記されず、
武宗の終演と張宝高の終演が
時期的にリンクしています。
宦官は武則天側の勢力であり、
安史の乱で唐を滅亡寸前まで
追い込んだソグド人が勢力の
影響が継続していても、
不思議では無いでしょう。
武宗が廃仏を進めた事に対する
宣言が残されてはいますが、
大規模な反乱があった事は、
全く記述に残されていません。
宦官は神策軍を保持しており、
軍事クーデターを起こす事も
十分に可能ではありました
845年に仏教への弾圧が
本格化したとされますが、
ここから本格的な戦争に
移行したのでしょうか。
宣宗の伝承が捏造であれば、
846年以降に一神教勢力の
唐・新羅を巻き込んだ
大規模な抵抗があっても
おかしくない所でしょう。
そして日本国内にいた
一神教勢力とも連合し、
日本でも大規模な戦争が
行われていたとすれば、
非常に恐ろしい話です。
他民族を見下し奴隷とし、
負けを認める位であれば
全てを滅ぼす勢いの
信仰であったのなら、
黙ってはいないでしょう。
現代のアメリカもユダヤ系の
金融で力を振るう勢力を
廃除しようと動くのであれば、
どれだけ大変かは想像するに
余りある大事件となります。
これを実行に移したのが
会昌の廃仏であったなら、
歴史的快挙ではあります。
橘逸勢もこれに関わり
活躍していたのであれば、
大伴氏が軍隊を率いて
一神教勢力と戦った事も
十分にあり得る話です。
承和の変の周辺の歴史が
捏造されたものであれば、
橘逸勢の優れた功績すらも
無い事にされたのでしょう。