小野峯守と大宰府

篁の父岑守(みねもり)は
文人貴族として名高く、
弘仁末年~天長初年に
大宰大弍として府政を担当し、
公営田の設置を申請するなど、
大宰府管内の財政安定に
努めた事で知られています。

大宰府は筑紫都督府とされ、
唐の植民地管理施設の名で
呼ばれていた事は書きましたが、
この時点の大宰府の立ち位置が
大きな問題となってきます。

行基の本に大宰府での反乱を
色々と書いた事がありますが、
中途半端な所で丸投げなので、
後々の歴史解釈がスッキリせず
モヤモヤする所があります。

行基の本を読んでご自身で
考えて下さいでは不可能な
厄介な話が余りにも多く、
ここまでやらないと私の説も
中途半端になってしまいます。

小野篁の父が唐の機関である
大宰府と密接に関係したなら
遣唐使にも関わって来ますが、
篁が唐に渡らなかった話に
疑問が生じて来ますね。

篁は遣唐使に任命されても
破棄し国内に留まった話は、
真実なのでしょうか。

実はこれに疑問を呈する
謎の記述が残されています。

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