伊勢踊り

伊勢踊りは慶長十九年(1614)に、
伊勢の風流踊りが全国に広められたものとされ、
天照皇大神にお仕えする神主と宣言して
『当代記』にはこう記されています。

此比者、伊勢太神宮及蕃ハ託シテ曰、
ムクリト被及合戦由ニテ神風烈吹、
不嫌男女大方毎日託アリ、
山田町中火ヲタテ可申旨也、
半時已後沲上如焰シテ夥嗚動シ、
其後海面静リ、
遷宮ト覚レバ如前託アリト云々、
彼国中今ニヲドリ不止、
古老ノ者カゝル奇特不審成儀、
前代未聞ト云々。
モハヤ此比ハ、京大和近江笑濃モ躍ヲ致スト云々。
奇特不思議ナル事共幾等キ有之ト云々。

土佐一宮ではむくり・こくりの日本の侵入を
伊勢の神の御計略により退治できたお陰で
平和に暮せる事に感謝するために
法楽の踊りをせよという神の御託宣があり、
日本中に広めていると神主が告げたと伝えられます。

むくり・こくりは元寇・高句麗の事で、
神風により元寇から救われた感謝の踊りが
戦国時代となって廃れていたものを、
伊勢の神主が復興させたと考えられています。

御伊勢様徒託のおどりと呼ばれた踊りは、
一夜二日の間、笛や太鼓の音が止まず、
七首を一組として、一夜二日に四十番踊られ、
踊りの前に一番ごとに趣向を唱えたそうです。

抑、是ハ天照皇大神ニ仕え奉る神主にて候。
然ハ今度、むくり、こくり、日本ニ望ヲかけ、
打渡り候処ニ、御伊勢の計事を以て御太地被成候。
其仍、天下太平、国土安穏ニ納候。
其故、御伊勢様より御法楽の踊仕候へとの
御神託ニまかせ、日本へ踊ヲ広め申候。
各々御見物可被成者也、如件。

この文を読んだ後に苗、太鼓を打ち鳴らし
踊った時に以下のように歌われたそうです。

御伊勢山田の神まつり、むくり・こくりを平らげて
神代、君代の国々の千里の末まで豊かにて
老若男女、貴賤、都鄙、楽え栄えうるめでたさよ
御伊勢踊りを踊り候て、慰みみれば
画も豊かに、千代も榮えて、めでたさよ

天の岩戸の神は神楽、月に六度の神楽より
千供万供、代々神楽より、参下向の目出たさよ
御伊勢踊を踊り候て、なぐさみみれば
国も豊かに、千代も栄えて、めでたさよ

神風により元寇から救われた事により
低く扱われてきた風日祈宮が格上げされ、
内宮・外宮ともに尊重されましたが、
伊勢の名の由来となった伊勢津彦は、
出雲神であり風神ともされています。

伊勢の神主であれば内宮主導となりますが、
神武天皇が敵対した伊勢津彦がこの神風なら、
鬼道に通じる外宮の度会氏が鬼道の踊りを
民衆に広めていった文脈の方が通りそうで、
まだ研究する余地が残されていますね。

神楽や供物より参下向といって
伊勢の地に参宮する事の方が
神に喜ばれると歌っているので、
伊勢参りを広める意図が見えます。

慶長十九年(1614)八月、
神宮が伊勢の野上山に飛び移り、
二十八日に山田に帰る折に
雷鳴や風が吹くであろうと
託宣がなされたそうです。

当日に伊勢地方に雷鳴や大風が起こり、
人々は踊りだし神宮へ参詣します。

簡素な踊りは派手になって各地に及び、
翌年の三月には駿府(静岡)を越えて
奥州にまで拡がっていったそうです。

これは伊勢参りを復興するために
神宮が興したムーブメントだったのか、
伊勢参りの伊勢の経済への影響は大きく、
江戸時代の伊勢参りが盛んになったのも
伊勢踊りの影響が大きそうです。

百年ほど後に書かれた記録が土佐に残され、
伊勢踊りは歌舞伎踊りに似ておらず、
榊に幣を持って神妙に踊るものであり、
清浄な体で踊る必要があると記されています。

渡世のおみ(仕事)をせずとも
踊ってさえいれば何でも湧いて出るとし、
金銭米銭が空から降ってきたとされており、
志多羅神事件で歌われた童謡にも
朝よりかげはかげれど、雨やは降る、佐米こそ降れ
と佐米(米)が空から降ってくる事を歌います。

慶長19年~20年は大坂冬の陣・夏の陣が起こり、
朝鮮出兵した秀吉の後に徳川が天下を取り、
大きな時代の節目に当たる時期であったので、
貴族から武家政権への移行時に行われた
志多羅神事件などを思い出させますね。

伊勢踊りも鬼道や度会神道に通じる
古代ヤマトの魂が時代の節目に顔を出す
社会変革のための予祝儀礼であったのか、
ここから天下太平の徳川の世が続きます。

これらが江戸末期の変革時に行われた
「ええじゃないか」に通じているなら、
古代からの流れから解釈し直す事により、
新たな知見が得られる事となるのでしょう。

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コメント

  1. シャイニー より:

    もう 踊るしかない そんな時が日本にはいくたびもあったでしょうか?先人が生き残れなければここは不毛之地だったでしょう
    これから 世界一勤勉な民ですから頑張らないといけないですね
    江戸期 お伊勢参りと熊野詣で と言われますが その後中仙道を通って帰るスペシャルルートがあったようです
    農に水で濃 天竜川の文化を いにしえの京の上皇さんも興味をもって下さったようですね