飛明神

現代では神社に神の参拝にいきますが、
以前は神は一定の場所に常住せず
祀られる時に現れるものとされ、
各地に神が飛びきたって示現した
飛来神の信仰がみられます。

宇治の明神を扱った狂言の「今神明」には

宇治へ神明の飛ばせられて、申し事が叶ふと申す

と宇治の神明が飛神明であると語っていますが、
伊勢の神宮の神も飛明神とされていたようです。

『若狭国税所今富名領主代々次第』に
応永十四年(1407)二月八日の
若狭白椿上谷の神宮の示現について

天照大神宮御影向有之

と記してあるのが初見とされ、
応永十七年(1410)の記述には、

今神明鳥居立られ、同橋渡される、
其換九月二六日に供養有之

とあり神明が影向してきて社殿が造られ、
今神明と呼ばれれたようですが、
神宮側はこれを認めず享徳二年(1453)二月、
内宮の神官は今神明と号した太神宮の勧請を
停止するように神祇官に願い出ています。

神宮が末社として正式に認めてきたのは
神領内の末社だけであったのに、
近ごろは各地に託宣によるとか
飛んで御座されたとか称して
神宮と全く同じ様式の社殿を建立し、
そこに多くの参詣者を集めて
神宮でもしない湯立神楽まで行なうのは
非常にけしからず中止するように言ったそうです。

ここで言う湯立神楽は花祭で行う湯囃子が
外宮の度会氏によってなされたものなら、
これも内宮ではなく外宮主導なのでしょうか。

この翌年に関東で享徳の乱が起こり、
28年もの内乱の最中に応仁の乱も起こります。
何らかの時代的背景があった事なのかは、
流石に史料が少ないと分かりませんね。

伊勢踊りは1614年に大神宮が
上野山に飛び移ったとされた事から
全国に流行したものですが、
内宮の神官が興したものとされ、
方針転換があったのかどうか、
不明な部分があります。

伊勢踊り流行のきっかけとなった
神による暴風や雷鳴の予言の成就に
類似した出来事が起こったとされています。

応永二十六年(1419)七月一六日、
暴風雨の後に海面が二十町あまりも光り、
光り物が熱田社の社頭に飛びこんできて、
通路の民家はすべて倒れたそうです。

少女が神託するところによると、
光り物は伊勢神宮の影向であり、
神宮の所在地の一つ山田が不浄なので、
清浄な熱田の地で異国の侵略への対処を
他の神々と評定するために来たとします。

同年に李氏朝鮮の対馬侵攻があり、
室町時代の話しとなりますが、
この周辺を余り掘り下げ過ぎると
地域振興の路線から外れそうなので、
取り上げてきませんでした。

現在思われている神の概念について
認識を変える歴史は多くありますが、
関心のある方は面白いテーマだと思うので、
背景の社会情勢や大枠の流れも含めて
研究家してみては如何でしょうか。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする