日本史上最長の戦

南北朝の対立は後南朝まで含めると、
150年ほど継続した国内最長の戦いで、
これが内乱でなければ蝦夷との戦いが
37年継続した事を遥かに凌ぎます。

内乱でなければと言うのがポイントで、
これが系統の違う勢力であった場合、
この国がこれだけ長期に渡って
皇室により統治されなかった時代が
存在した事になってしまいますね。

時の権力者にとって皇室の存在は、
万世一系としての利用価値が高く、
南朝は実際は別勢力であったのを
後に歴史の捏造が行われた可能性は、
どの程度のものなのでしょうか。

南朝天皇は存在が確定しなかった
長慶天皇以外の名前に「後」がつき、
それ以前の天皇をリスペクトする
諡号が与えられています。

南朝の呼び名も南朝側が用いたのでなく
一般的に吉野朝と呼ばれていましたが、
朝庭のお家騒動として北朝が用いたなら、
同一勢力の分裂イメージさせるに十分です。

君子南面すと言い北が君子で南が臣下と
上下関係の意味を含ませていたなら、
南朝を格下の存在として下に置く目的が
存在していた可能性を垣間見せます。

後醍醐天皇は北の京都を睨んだ状態で、
怨みを抱きつつ葬られたとされますが、
後醍醐天皇の墓の北上に天武天皇の古墳、
更に北上に天智天皇の古墳が位置します。

この墓の位置は天智系の王朝が上で、
その下に別系統の王朝が置くための
呪術的な意味があったのでしょうか。

北と南の関係は京都・奈良に関わり、
日本の歴史はこの周辺に王朝があり、
東は蝦夷地として扱われてきました。

この蝦夷地に優れた王朝が存在したなら、
都合が悪かったのでなないでしょうか。

東朝と西朝の対立となればイメージが変わり、
西日本優位の歴史観が覆る事になります。

南北朝の対立は本当に南北であったのか、
東に優れた王朝が存在しなかったかは、
東三河の痕跡を探る事で明確になるでしょう。

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