平安時代に唐に渡った入唐八家の一人で
五代目の天台座主の円珍(えんちん)は、
ダキニ天の深層を探る鍵を与えてくれます。
空海の甥あるいは姪の息子とされ、
醍醐天皇から智証大師の諡号を送られ、
三井寺(園城寺)の初代長吏でもあり、
天台宗寺門派の宗祖ともされるので、
空海に負けず劣らずの感がありますね。
熊野が盛んになったのは空海より後で、
当日は地方の一霊山とされていたそうです。
熊野が広く知られるようになったのは
上皇の熊野行幸に由来しますが、
宇多上皇と花山上皇は単発とされます。
花山上皇は藤原氏の陰謀によって
天皇の位から外されたと言われ、
安倍晴明との絡みもある事から、
特殊な分類に入りますね。
白河上皇は九回もの参詣を行い、
現地で熊野三山を統括する熊野別頭を
京都で統括する熊野検校を作ったとされ、
上皇が構築したシステムがなければ、
熊野もマイナーなままの文脈です。
後鳥羽上皇は異常な数の参詣をしており、
鎌倉幕府と戦い幕府が朝廷を越えたのが
この上皇の時代だった事を考えると、
後醍醐天皇のダキニ天祭祀への流れに
深く関わる隠された領域がありそうです。
園城寺から初代熊野検校が輩出されており、
熊野と円珍の関係の深さが伺えますが、
彼は天皇の即位法である輪王灌頂の中で
熊野三山は吒枳であると記しています。
ここには吒枳としか書かれていないので、
吒枳尼天なのか吒枳王で愛染明王かは
これだけでは読み解けませんが、
後醍醐天皇は両者とも信仰しており、
ペアで語られている可能性もあります。
空海の身内なのに真言密教ではなく
天台宗に関わってはいますが、
関係が無かった訳でもないならば、
空海と稲荷の繋がりにも関わります。
熊野の名の由来には諸説あり、
畏から神秘の神々の住まう所など、
熊の字を使わなくても良いのではと
思わせる説も存在してます。
花祭の本に書いた話ですが、
白山信仰のルーツに新羅があり、
新羅と修験に深い関係があります。
新羅の花郎は修験道に関係しており、
壇君神話には熊と虎が登場しますが、
虎と言えばオリオン座を象徴し、
熊と言えば大熊座=北斗七星であり、
狐と北斗七星との関係は書きましたね。
ここまで行くと伊勢の外宮など
鬼道の深層に関わって来ますが、
円珍はこの領域まで認知した上で、
熊野に関与していたのでしょうか。