井伊氏と南朝

豊橋市の東、静岡県西部に位置する
井伊谷は南朝の重要拠点でした。

井伊直弼で有名になった井伊氏には、
寛弘七年(1010)井伊氏の井戸で生まれた
備中守共保を始祖とする伝承があります。

井伊共資が渭伊社参詣時に井戸脇に神童を発見、
我が子として育て娘を婚させた共保伝承が、
井戸のそばにある解説に記されています。

又、史説として、
天日槍命(あめのひほこのみこと)
三十二代三宅好用、
醍醐天皇の延喜年間奈良より荘司として着任、
この井戸の傍に居を構え、
それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が
共資公に嫁し共保を生誕したとも伝えられます。
三宅の家紋は橘であります

これを見ると井伊氏は醍醐天皇の時代に
発祥したと伝えられていますが、
これだと菅原道真が左遷され怨霊化した
日本史上の分岐点の一つに当たります。

醍醐天皇は道真と笠置で登場しており、
ここでも関係性が見え隠れしていますが、
人なのに天神と呼ばれた道真の謎は、
現代でもまだ解き明かされていな領域が
存在しているのは間違いないですね。

天日槍命は渡来してきた新羅の王子とされ、
奥山半僧坊も新羅と関係しています。

新羅に関しては花祭の本に書きましたが、
花郎(ファラン)が修験と密接に関係し、
役小角との関係も伝承されています。

井伊は井戸に由来する名とされますが、
これは真実なのでしょうか。

私はこの伝承は後世の捏造であり、
更に深い歴史が隠されている事を
後醍醐天皇が認識していたが故に、
井伊谷を重要拠点としたと考えます。

井伊谷と東三河との関係を探ると、
様々な要素が見えてきますが、
ここにも後醍醐天皇の皇子が祀られ、
歴史を語りかける雰囲気があります。

井伊に関して書ける事ありますが、
忌部氏などにも通じているので、
諸般の事情でどこまで出して良いか、
クリアすべき課題があります。

もっとこのエリアの歴史的価値が広まり、
行政なども動かざるを得なくなれば、
様々な問題を協議して進める事ができ、
出せる情報の幅が広がるのは確かです。

情報の拡散度に依存する部分も多いので、
祭や聖地の保護のためにも情報拡散を
お願いしたいところです。

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