詩経の「風」は降神・招神を意味する
「凡」が元であったとする説は、
どこまで信憑性があるのでしょうか。
「考槃」の詩が存在していますが、
これを検討してみましょう。
考槃在澗 碩人之寬
獨寐寤言 永矢弗諼
考槃在阿 碩人之薖
獨寐寤歌 永矢弗過
考槃在陸 碩人之軸
獨寐寤宿 永矢弗吿
ここでは谷間や山、平地などの
様々な場所で考槃が行われた事を
見る事が出来ますね。
一般的な説では隠居を楽しむと
考えられている様ですが、
解釈により大きく変わるのが
良く分かる詩となっています。
赤塚忠氏の説によると考槃は考凡であり、
殷代に降神・招神は凡(はん)と呼ばれ、
その儀礼は考凡(こうはん)の名で
呼ばれていたとしています。
「碩人之寛」の碩人は神事に奉仕し、
神霊の尸(かたしろ)となる人を指し、
「碩」は毛伝では「大」なので、
赤塚忠氏は大きな仮面を被ったので
碩人と言ったとしています。
花祭も大きな鬼神の仮面を被りますが、
明治までは宅宣が存在していたので、
考槃で神の言葉を聞いたのでしょうか。
荒木比呂子は石形の仮面をつけた人とし、
ジョジョの奇妙な冒険を思い出しますが、
全然違う意味になってしまいますね。
「碩人の宗教的性格と衛風『碩人』篇の解釈」で、
碩人とは、本来、
水源の神霊の象徴である
巨石に因る名であって、
その神霊を体する石形の
仮面をつけた人をいうと解釈する。
と碩を石と解釈していますが、
どれが本当かの断定は難しく、
色々な場所で考凡がなされらなら、
神だとしても水神かは分かりません。
「独寐寤言」の寐・寤の意味を
眠る・覚めるとすると意味が通らず、
忘我となった神懸かりの最中に
言葉を語る事を意味するとすれば、
考の概念の見直しがいりそうです。
儒教における考とは親に限定されず、
天地の神々に対しても適応される
広い意義を有していたなら、
イメージが大分変わりますね。
儒教では天を父とし地を母とすると
記されているのを見る事はありますが、
現代の道徳論とする認識を越えて、
祭祀的・呪術的なリアルな肌感覚に
裏打ちされた物だったのでしょうか。