平城天皇の史料は少なく、
人物像や評価の殆どが
『日本後紀』をベースに
構築されているようです。
『日本後紀』は弘仁十年(819)に
嵯峨天皇の命で編纂されており、
敵対側の書いた史料であれば、
信憑性に疑問が出てきますね。
平城天皇の政治路線は
桓武天皇とは全く異なり、
造都と軍事などを見直し、
時代の転換を模索したと
評価されています。
国家財政の破綻を収拾させ、
地方の民情視察を目的とした
六道観察使を設置し参議を充て、
民のための政治でをした事を
感じさせるに余りあります。
しかし体調不良を理由に
突然譲位したとされますが、
裏を察するのは容易いですね。
坂上田村麻呂が薬子の乱に
登場している事から考えると、
蝦夷征伐のための軍事侵攻が
平城京に対して行われた
可能性が浮上してきます。
行基の本に書きましたが、
平城京は橘諸兄や行基らの
先住民族サイドに奪取され、
敗戦した朝廷は追い出された
可能性が十分にあります。
この流れから考えると、
平城は道鏡側の王であり、
薬子の乱は御家騒動では
無かった線が濃そうです。