神道には教義がなく正月に神社に参拝に行ったり
アニミズム程度の認識しかないと思われていますが、
伊勢神道には明確に教義が存在しています。
そこには神を信仰する事で救いを求めるのではなく、
もっと広域な神を概念が存在しています。
伊勢神道では神鏡について説明がなされています。
天地開闢之明鏡也。三才所顕之宝鏡也。
当受之以清浄。而求之以神心。
視之以無想無住。因以為明神之正体也。
(「神鏡座事」の条)
鏡者霊明心鏡也。万物精明之徳。
故照混沌之前。帰元始之要。斯天地人三才。
当受之以静。求之以神。視之以無形顕実。
故則無想鏡為神明御正体也。
(『宝基本記』)
『宝基本記』ではこの神鏡の定義を
「気化為天地。々々化為鬼神。々々化而為明鏡。」
と神の存在を表徴するものとしていますが、
ここにも鬼神が登場しているのは、
やはり鬼道との関わりなのでしょうか。
「受之以静。求之以神。」としているのは、
通常の感覚の対象外にある道を体得するために、
静寂の中に神を求める事が必要なのでしょう。
プラトンの著作にも鏡についての記述があり、
ソクラテスが鏡と魂についての話をしたり
「汝自身を知れ」を深掘りしている部分があり、
徐福によりギリシャ哲学が持ち込まれた事も
影響している可能性がありそうです。
神は遍在しつつ人間の内にも宿っており、
外なる神と内なる神は本質的に一つで、
濁った心を磨きあげる事で神性を輝かし、
内に神を宿せば外が神が見えるとします。
それ以前に記された『中臣祓訓解』にも、
己心清浄。諸仏在此心。
念心是明神之主也。万事者一心作也。神主人々。
須以清浄為先。不預穢悪事。鎮専慎之誠。宜致如在之礼矣
と、自らの内に仏が存在しているとする思想が見えますが、
これは一神教以外によく見られる思想ですね。
これは朱子学の存養などにも通じる内容で、
鎌倉時代初期に禅僧により持ち込まれた
朱子学も影響を与えていそうです。
儒教の性善説も内在の神性を善と言っており、
天人合一の境地と似たようなもので、
儒教は様々な場面で道理を通して浩然の気を培い、
天地と一体となる境地を目指します。
インドでもアートマンなどは似たような概念で、
ギリシャ哲学にも『一者』が議論の対象となり、
徐福一行により様々な宗教・哲学が持ち込まれ、
アレクサンドリア大図書館で行われた様に、
包括的研究が為された可能性を書いてきました。
日本でも壬申の乱の後に焚書が行われ、
膨大な文献が焼かれてしまったのでしょうか。
後に武家の世に転換していく過程で
抑圧されてきた深層を表に出すために、
時代的に通用する形で教義を整えたのが
伊勢神道であったと仮定すれば、
原初の鬼道のレベルは想像以上に高そうです。