『日本書紀』仁徳六十年十月条には、
日本武尊の白鳥陵の陵守陵の陵守を
役丁に使役しようとしたところ、
怪異が起きて差役を停止し、
土師連らに授けたと記されます。
雄略天皇九年五月条には、
新羅征討の将軍であった
紀小弓(おのみゆき)の死に
視葬者を充てると言って、
土師連小鳥(おとり)に命じて
墓を造り葬らせたと記されてます。
ここから土師氏は喪葬儀礼に
関係すると言われたようです。
雄略十七年三月戊寅条には、
朝夕御膳を盛る清器の進上した
贄土師部(にえのはじべ)が見え、
食事用の土器作りにも従事したと
見られているようですね。
土師器と呼ばれる陶器が存在し、
食事に限定されない祭祀用の
陶芸品を作った可能性もあります。
土師氏は天皇や王族の殯宮を掌った
事例が残されてはいますが、
軍事・外交にも関わったようです。
土師氏の始祖・野見宿禰は相撲で名高く、
道真公も文武両道であったそうです。
外交では賓礼を含む儀礼全般に精通し、
学識の深さによる対話がなされますが、
道真公も渤海使と詩の応酬をしています。
大宝律令撰定の功労者の一人として
土師宿禰甥が『続日本紀』に記され、
これも道真公と通じていますね。
となると道真公の活動内容は
土師氏のお家芸と言う事になり、
行基と共に活動した土師氏も、
土木工事の水準を越えた活動を
していた可能性も浮上します。
法隆寺行基建立は私の説ですが、
昔の寺は政祭一致の行政機関で、
土師氏が活躍していた可能性が
非常に高い物となりそうです。
『詩経』を読むと寺の政治は、
人のみでなく神々に対しても
どう関われば良いも含めて
研鑽が積まれた事が分かります。
古代の雨乞いの重要性などは
文献に残されていますが、
農業と地霊や田の神などの
関係性も重視されており、
自然界との関係性が見えます。
道真公にも雨乞いをした伝承が
残されている事を考えると、
これも土師氏の政治の一環に
関わる行為として認識された
お家芸の可能性もありますね。