唐で黄巣の乱が勃発した後、
884年に黄巣が自殺した後も
残党が各地で暴れ回り、
901年まで乱が続いています。
これがにより唐の滅亡に
繋がっていく事となり、
アジアの大変動期に
突入する事となります。
日本はこれと全く無関係で
影響の痕跡が存在しない
無風状態だったのでしょうか。
宇多朝の寛平元年(889)に、
東国を根底から揺るがす
物部氏永の乱が起こります。
この乱は12年にも及んだ
大規模な乱であったものの、
今年、東国の賊首物部氏永、起つ
東国の強盗の旨物部氏永等、発起す。
追捕(ついぶ)の間、已に以て昌泰に及ぶ
という記録しか残されておらず、
物部氏永の正体も乱の中身も不明の
隠蔽工作の痕跡を感じさせるに
十分な事件となっています。
これが鎮圧された昌泰四年(901)は
黄巣の乱の終結と同時期であって、
この翌年に道真公の大宰府左遷の
事件が起こされたとされるのに、
何の関係もないと言えるでしょうか。