『扶桑略記』の矛盾

東丹国は渤海人を支配したものの、
彼らの武力的な反撃に耐えられず、
阿呆機の死による権力抗争も伴い、
わずか二年で東丹国は遼陽に移転、
王族が後渤海国を建てたとされます。

単に書き間違えの可能性もありますが、
この時代は文献による矛盾が存在し、
嘘が含まれている事になるので、
時代背景を見てみる事にしましょう。

後渤海国樹立後に王と弟の抗争による
内紛のために高麗に移る者が多く、
国力の低下に伴い小国王が乱立。

旧渤海系の国家が幾つも興亡を繰り返すも、
1116年に渤海人高永昌が遼東地方を占拠し、
大渤海皇帝を称したのを最後に消滅します。

渤海に支配された粛慎系の女真族は、
減少した渤海人の補充に登用される中で、
勢力を拡大して王朝を樹立する事となり、
後に金帝国や清帝国を建国したようです。

日本は930年に東丹国の使者が来た後に、
アジア諸国との交流が断絶したとされ、
アジアの再編成の流れから分断して
国内の歴史が推移してきたイメージが
持たれているのが現状でしょう。

志多羅神事件は天慶八年(945)とされ、
この15年後に起こった事を考えると、
無関係であったとは言い切れないでしょう。

渤海国との密接な交流が存在したかと思えば、
後渤海国とは交流が存在しなかったかの様な
記述がなされているのは何故でしょうか。

菅原道真の怨霊が跋扈したとされるのは、
この隠された時代背景にこそ核心が存在し、
道真が天神として信仰された理由も
そこに在るのかも知れません。

『扶桑略記』には東丹国の使者が
930年に来日したと記されていますが、
東丹国は928年に渤海の在りし地から
移転したとされているようです。

東丹国は渤海人を支配したものの、
彼らの武力的な反撃に耐えられず、
阿呆機の死による権力抗争も伴い、
わずか二年で東丹国は遼陽に移転、
渤海王族が後渤海国を建てたとされます。

単に書き間違えの可能性もありますが、
この時代は文献による矛盾が存在し、
嘘が含まれている事になるので、
時代背景を見てみる事にしましょう。

後渤海国樹立後に王と弟の抗争による
内紛のために高麗に移る者が多く、
国力の低下に伴い小国王が乱立。

旧渤海系の国家が幾つも興亡を繰り返すも、
1116年に渤海人高永昌が遼東地方を占拠し、
大渤海皇帝を称したのを最後に消滅します。

渤海に支配された粛慎系の女真族は、
減少した渤海人の補充に登用される中で、
勢力を拡大して王朝を樹立する事となり、
後に金帝国や清帝国を建国したようです。

日本は930年に東丹国の使者が来た後に、
アジア諸国との交流が断絶したとされ、
アジアの再編成の流れから分断して
国内の歴史が推移してきたイメージが
持たれているのが現状でしょう。

志多羅神事件は天慶八年(945)とされ、
この15年後に起こった事を考えると、
無関係であったとは言い切れないでしょう。

渤海国との密接な交流が存在したかと思えば、
後渤海国とは交流が存在しなかったかの様な
記述がなされているのは何故でしょうか。

菅原道真の怨霊が跋扈したとされるのは、
この隠された時代背景にこそ核心が存在し、
道真が天神として信仰された理由も
そこに在るのかも知れません。

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