讃の名前が契丹古伝に登場し、
倭の五王に見られる名なので、
契丹の歴史書が残されていれば、
日本の古代史の理解についても
深まっていた事でしょう。
倭の五王の名前は一文字だけで
表現されていますね。
倭武をヤマトタケルとするのは
私の説ではあるのですが、
武と書いてタケルと読むのは
古事記等にも見られる所です。
建や武と書いてタケルと読むのが
古代の読み方であったとすれば、
現代とは違う読み方になりますが、
他の五王も現代語とは全く違う
読みの可能性は高いでしょう。
河内春人著の『倭の五王』を読むと、
武をタケルと読む事についての、
複数の疑問が記されています。
「武」をタケルと読むとすれば、
五世紀後半に漢字の読みとは違う
訓読みが定着していた事になり、
現在の研究で訓の使用が確実な
最も古い事列とされるのは、
六世紀後半の岡田山一号墳から
出土した鉄釗銘だそうです。
赤外線で「各田卩」と判読できる
文字が見つかったそうですが、
画数の多い字を省略して記す
省画が存在していたそうです。
「各田卩」の「各」は「額」、
「卩」は「部」のつくりの省画で、
「部」字におおざとのみを記す事は、
古代で常用されていたそうで、
「各田卩」は「額田部」であり、
「ヌカ・タ・ベ」と読んだ事が、
最古の事例とされています。
武がタケルならこれより百年前に
訓読みが成立していた事になり、
まあこの周辺は今後の出土品で
塗り替えられる可能性のある
度合いの強さの問題ですね。
「武」をタケルと読むのは、
「建」の用法の方が早いそうで、
ワ力タケルも「若建」の表記が
『古事記』で先行して見られ、
「武」でタケルとするのが
より古いか疑問だそうです。
私の研究した結果からすると、
壬申の乱で侵略した側により
捏造した歴史を記したのが
記・紀の二書であるので、
これを起点に置く考える事は
厳しいのではと思っています。
これを前提に考えていくと、
五王を天皇に対応させる研究は
微妙な問題を含む事になります。
唐に倭王朝が継続していると
認識させるのが日本書紀を
編纂した目的であったなら、
何人かがモデルとなる天皇が
存在していたとしても、
表記を絶対とは出来ません。
五世紀の倭国の人名の記述は、
稲荷山古墳出土鉄剣銘と
江田船山古墳出土大刀銘で
確認されているのですが、
獲加多居鹵・乎獲居・意富比垝・
无利弖・伊太加などの当て字が
用いられている事が分かります。
万葉仮名で夜露死苦と書く
あの手法と同じですが、
ヤンキーが万葉仮名を
用いていた方が驚きです。
中国人にメールを送る時に
私の名前を健貴と書いても、
読み方を聞かれた時には
表音文字で伝える事と
似たような話ですね。
五世紀には固有名詞を
一音一字で漢字を書き表す
データが見つかっており、
武をタケルと読んだかは、
疑問があるそうです。
しかし五世紀に訓読みが
成立していなかったと
断定しうるのは問題で、
古の倭は多民族国家であり、
様々な言語が用いらていれた
可能性が高いと思っています。
いわゆる神代文字とされる物も、
外来語が含まれていた可能性が
ゼロではないと思っていますが、
徐福渡来を始め異国文化の流入が
頻繁にあった事でしょう。
稲荷山鉄剣もたまたま磨いたら
銘文が見つかった程度の話で、
失われた膨大な文化財の中に、
他言語が見られたとしても、
理論破綻はないでしょう。
ワカタケルを獲加多支鹵と読む
主張についてなのですが、
ここにも様々な説がある事を
『平将門の深層』に書きましたが、
個人名でない可能性もありますね。
まだまだ書ける事はありますが、
ブログで書くのは憚られるので、
この辺りに止めておきます。
現状で武=タケル説の度合いが
何パーセント程度と見るかは、
人それぞれの話でしょうが、
全ての歴史の学説は断定せず
検証すべき対象ではあります。
私が考えたから絶対ではなく、
最終的には各々の責任において
判断すべき話にななりますが、
完全に分からないからこその
ロマンがある事も確かですね。
見えそうで見えない時の方が
楽しいと考えている人は、
私だけではないと思いますが、
文化財保護などの実地の話に
関わって来る話ではあるので、
学術的な部分は大事ですね。
私の説以前の問題として、
通説では説明しえない物証が
三遠には幾つも残されており、
通説の見直しそのものが
おざなりとされている事が
根幹的問題だと思っています。